参考図書  本朝武家諸姓分脈系図【全号まとめ】  諸系譜 第9冊 ★★★★★  諸系譜 第25冊★★★★★  諸系譜 第30冊  中京大学論叢 (6) 教養篇★★★★★  尾張★★★★★  尾張国愛知郡誌 (郷土資料選書)★★★  尾張の歴史地理 中編 (東海叢書 ; 第11巻)  大辞典 第24巻★★★ 平凡社 編 平凡社, 1954  寛政重脩諸家譜★ 寛政重修諸家譜 1520巻【全号まとめ】  寛政重修諸家譜 第22 新訂   姓氏家系大辞典★★★ 系譜学会  日本姓氏系統総覧★  大衆人事録★  人事興信録★  新校群書類従 第18巻 (武家部(二) 釈家部(一))★  戦国時代 松井広吉 著 博文館, 明27.3  戦国人名辞典★★ 高柳光寿, 松平年一 著 吉川弘文館, 1962  戦国人名辞典 高柳光寿, 松平年一 著 吉川弘文館, 1962  大人名事典  大日本天皇御系図 再訂  日本人名辞典  日本歴史地名大系  大日本全国各府県市町村新旧対照一覧  日本城郭全集  和名類聚抄本(わみようるいじゆうしょう) 倭名類聚鈔 20巻【全号まとめ】  大日本地名辞書★  愛知県地名集覧 (地名学選書)  大日本戦史  国史叢書★  国史大系  国史大辞典  野史  信長公記  徳川実紀  甲陽軍鑑  日本外史  日本外史補系譜  大武鑑  新撰姓氏録  皇学叢書  神仏分離史料  日本仏家人名辞書  田原族譜 初編★  日本古代人名辞典  本朝通鑑  国史論纂  古事類苑  神社名鑑★  家紋の由来★  大日本地誌大系★★  藤堂藩(津 久居)功臣年表 : 分限録 (三重県郷土資料叢書 ; 第86集)★  相楽総三関係史料集  関ケ原軍記  維新日誌 第2期 第4巻 著者橋本博 編出版者静岡郷土研究会出版年月日昭和9  古事類苑  全国遺跡地図 : 史跡 名勝 天然記念物および埋蔵文化財包蔵地地図 滋賀県  徳島県郷土事典 ※全文検索できない  図説江戸の下級武士 ※全文検索できない  岐阜城いまむかし  愛知県城主伝 (偉人伝 ; 第8編)  濃州城主誌略.美濃国村々領主記  横須賀町史★★★  東海市史 資料編 第4巻★★  岐阜市史★★  郡上八幡町史★  北方町史★  岐阜県郷土史 第1巻  神岡町史 特集編 (飛騨国野史国説集成)★  高富町史 本編  野洲川下流域の民俗★★ 滋賀民俗学会 1974  守山市史★★★ (小字村瀬)  北辺山石川寺本縁起★ (小字村瀬にあった)  加賀市史料  臼杵史談  因島市史★  播磨国郷帳 (村数1709)  揖保郡石海村史  二豊小藩物語 : 江戸時代の大分県 上巻★★  「神戸録」とその周辺  熱田風土記 巻7★  江源武鑑  池田家履歴略記 上巻★★★★  池田家履歴略記★★  国事昌披問答★★★  伊乱記★★★  武功夜話(前野家文書)★★  立入宗継文書 川端道喜文書★  立入宗継文書 川端道喜文書 (国民精神文化文献 ; 第13)  渡来人のあしあと : 大阪の地名をさかのぼる  日本の苗字 : あなたの祖先を調べる  系譜精表 佐藤小吉 著 東洋図書, 昭和8  [朝鮮総督府]調査資料 第41輯 朝鮮総督府, 昭和10  敵討御堂前実記 著者 正木素道 編 出版者 福老館 出版年月日 明21.4  木地師制度研究序説  美談日本史  稲田家御家中筋目書  史談史蹟国史の華 和名抄 伊水温故 伊賀考 三國地志 姓氏録 古事記 日本書紀 野史 織田信長家臣人名辞典 戦国人名辞典 総見記 日本西教史 人事興信録 正倉院文書 延喜式・和名抄 平家物語 源平盛衰記 吾妻鏡 承久記 沙石集 雑談集 関東往還記(弘長二年性海) 西大寺叡尊伝記集 信長公記 信長記 太閤記 道家祖看記 佐久間軍記 信雄分限帳 家忠日記 三河物語 藩朝譜 徳川実記 木賀崎縁記 長母寺に関する最古のまとまった文献 信長記(しんちょうき) 小瀬甫庵(おぜほあん) 三河後風土記 市民の古代 11 郡上郡村瀬家 山岳修験 遠山家之事 肥田家之事 生駒氏伝記 門葉諸家電気 久昌寺古例 講座日本風俗史 大武鑑 韓来文化の後栄 年報中世史研究 張州府志 日本紀略 続日本紀 続日本後紀 三代実録 三州志来因外観 徳川十五代史 家康伝  三百藩家臣人名事典  歴史読本 44 ひらい、まつだいら  江北記  天皇の系譜と神話  吾妻鏡  開明節用集 ■(国会図書館限定)  村瀬栲亭 ※肖像画あり 村瀬藤城の生涯 私の従軍中国戦線 : 一兵士が写した戦場の記録 村瀬守保写真集  寛永諸家系図伝  歴史研究 (333)(戎光祥出版, 1989-01)★★★  歴史と旅 秋田書店  日本歴史 日本歴史学会 編 (吉川弘文館, 1987-04)  人物往来歴史読本 10(3)★  小坂井町史 寳飯郡小坂井町 著 寳飯郡小坂井町, 1930    みんなは知らない : ●●●●命令  源義家 (人物叢書)  南北朝内乱における寺院軍事活動の研究  対馬歴史民俗資料館報 (23) (PC)  尾張国地名考  南北朝内乱における寺院軍事活動の研究  (村瀬, 貴則, 2019)  萬葉集の編纂 : 作者未詳歌巻の論 博士論文 村瀬憲夫 [著] ([村瀬憲夫], [2000])  阿波町史 並び矢  統計的にみた天保期名古屋の医師像 下級武士や、農、商家から医師に転じたものも少なくはなかった。  万物の自然 : 村瀬マサ子集 (日本全国俳人叢書 ; 第140集) ■国会デジタルにない  角川日本姓氏歴史人物大辞典23愛知県★★ 角川書店  角川地名辞典  村瀬正兵衛秘話秘覚集★  村瀬平四郎先祖書★ 筑波大学附属図書館中央図書館  徳川幕臣人名辞典  見聞諸家紋  応仁略記  松隣夜話  改訂史籍集覧 第25冊  見聞諸家紋(けんもんしょかもん)  大村家譜  赤松秘士録 服部氏由緒帳 東京大学史料編纂所図書目録 第2部 6 (和漢書写本編 6 謄写本 下之2) 士林泝洄(しりんそかい) 切支丹宗門来朝実記 歴史読本 太平記 甫庵太閤記 諸家イロハ系図 譜謀余録 摂家系図 村瀬系図佃家血肉 講談日本外史 第4巻 戦国群雄の巻 講談日本外史 第6巻 徳川家康の巻 大衆版 皇典講究所講演(三将皇室の再興を図る) 鎌倉近世史料 手広編 6 大漢和辞典 蓮如上人御伝起 ---------------------------------------------------------------------- 参考: ・曾根城史 ・寛政重脩諸家譜★ ・姓氏家系大辞典★ ・田原族譜 初編★ ・春日井市史 地区誌編 1 (坂下・高蔵寺) ・瑞穂区の歴史 (名古屋区史シリーズ ; 7) 山田寂雀 著 愛知県郷土資料刊行会, 1985.8 ・熱田神宮とその周辺 著者 田中善一 著 出版者 名古屋郷土文化会 出版年月日1968 ・ ・横須賀町史 ・尾張志 ・張州史?? ・尾張徇行記 ・尾張国地名考 ・愛知郡誌 ・愛知県史 ・ ・大日本史料 ・ ・ ・ 参考文献:  江戸時代全大名家事典(東京堂出版)  日本史諸家系図人名事典(講談社)  江戸大名家血族事典(新人物往来社)  寛政重修諸家譜(国立国会図書館デジタルコレクション)  名門・名家大辞典(東京堂出版)  日本名字家系事典(東京堂出版)  徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)  日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)  最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)  家紋・旗本八万騎(秋田書店) 日本外史 巻13 徳川氏前記 織田氏上 増補 図書 頼山陽 著[他] 頼又二郎, 明9.4 全 2 件の該当箇所 15: 奥大驚擾亂不知所出。服部小平太進入幕中。薄義元 16: 〓田祠。乃使宗繼。又磯貝久次。煮密〓〓〓尾尾張。 潮 (47) 雑誌 潮出版社 [編] (潮出版社, 1964-05) 125: 一人が嫁入った先に、服部伊豆守正重という者があった。父はいわゆる服部堂という徳川家忍び組の創始 日本の社会と思想 : 古代から近代へ 図書 野口隆 著 汐文社, 1966 74: 、山名·一色·赤松·京極の侍所別当家などの家柄によって政治が参与せられてきたのであるから、それらをさ 苗字から自分のルーツ(由来)を探る  https://myouji.org/ 城  https://shiro200303.sakura.ne.jp/ 民俗学の広場  https://folklore2017.com/ http://hush.gooside.com/ 人物文献(伝記など)を探す https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/theme_honbun_101121.html 江戸時代の幕臣を調べる https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_780.html 江戸時代の藩士を調べる https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_797.html 見立番付を探す https://rnavi.ndl.go.jp/jp/oldmaterials/post_163.html 江戸時代の商人を調べる https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_401.html 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/aiti/ooagata.html 聖護院門跡 https://www.shogoin.or.jp/ 姓名・苗字・名前一覧 - 漢字検索 https://kanji.reader.bz/more/ 日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/search ムラの戸籍簿データベース https://drfh.jp/mura/ 国文研データセット簡易Web閲覧 https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/openimages.php ・https://web.archive.org/web/20060512015549/http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/clan_index.htm ・https://nakuyo-neuneu.com/ 台湾の中央研究院等で中国二十五史などの電子データをホームペ-ジ http://hanji.sinica.edu.tw/ 東大史料編纂所のデータベース http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller 歴史的行政区域データセットβ版 | Geoshapeリポジトリ https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ 村瀬 2024/4/16 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■母良世ルート  母良世→村瀬貫名?(平安時代初期の大同3年(808年)『大同類聚方』  母良世薬。安倍朝臣廣澤麻呂の方。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■赤松氏ルート(村上源氏)  洌賀孫七朗(敦之)延元2年(1337年)生。母は妾波江浪士村瀬氏女  ※浪江・・・筑後國山門郡波江村?  得平頼景-赤松将監-間嶋-中村左馬助光景(明徳2年(1392年)生)  -浅井-村瀨喜兵衞盈明、村瀨新七明平 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■佐々木定景ルート(宇多源氏)→清寿院  村瀬七郎(=平井(佐々木)定景)( -1353年)(近江小濱村の伝承に往古はムラセ。旧地名字村瀬)  村瀬弥七郎 清寿院の先祖、織田信長に仕えたとされる。  村瀬兵庫良清(1616年頃)  村瀬良済 藩命により清寿院と改称。(清寿院(名古屋市大須)は明治廃仏毀釈で廃寺)  佐々木義経(1000-1058年)  佐々木経方(10??-1???年)(佐々木荘下司)佐々木宮神主。  愛智家行(愛智四郎大夫)  ※鎌倉時代はじめ愛知郡に住んで愛智氏を称した  愛智家次(下野権守)    ※弐男家次-平井氏の祖(愛知川町平居)  愛智家政(平井六郎) ?平井家景(平井三郎) 佐々木宮神主。  平井定信(平井弥三郎)佐々木宮神主。  平井定氏(平井五郎?) ?平井定長(平井次郎) △平井定景(村瀬七郎) 佐々木宮神主。平井三郎定景 文和2年(1353年)佐々木秀綱北江州堅田討死。堅田近くの真野浦にて新田氏の残党堀口貞祐に討たれた。  國景(村瀬主馬允)  家景(右馬助 村瀬二郎)  公家(村瀬小次郎)  信家(村瀬彦六)住尾張国愛智郡古渡村。大永2年(1522年)卒。  俊家(村瀬七郎)  重家(村瀬左馬助)黒田下総守重隆(1508-1564年)舎弟 ★俊良(村瀬弥七郎)仕織田右大乃家。尾張国春日井郡平田村。天正10年卒。法名洞雲庵永山壽昌居士。  良喜(村瀬次郎助、弥七郎)尾張国春日井郡東鹿田村。慶長3年卒。 ★良清(村瀬大円坊)  良斎(清寿院 初代)元和2年家督を継ぐ。源敬公(徳川義直 名古屋藩初代藩主)謁見被仰付。元禄12年卒。  ...  喬臣(清寿院 15代目)(村瀬玄中)明治初期。  ※平井氏、佐々木系図に愛智家行の子家次、平井権守、其他井源太家実の子家員、平井源八とあり、   其裔也。又佐々木経方の三男豊浦冠者行実の孫井源太家実の長子源八家員より出づるものあり。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■村瀬浄心ルート(藤原姓?)(1564年)  村瀬東心(,乗心,浄心)(永禄7年-1564年) 高田城主(現:名古屋市瑞穂区)。  【尾張名所図会】では、高田城を尾張源氏の高田四郎重家の邸跡としています。  この高田四郎重家は平安末期の武士で、何かの罪で土佐に流罪になっています。  時代は下り永禄年間(1558~1570)になると、村瀬浄心という人が高田城主になったようで、  永禄七年(1564年)に、 この村瀬浄心がこの地に八剣社を創建した記録がある。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■村瀬作右衛門ルート(尾州郡村)  村瀬氏(1584年頃) 将軍足利義輝の被官。作右衛門の親。  村瀬作右衛門(1584年頃) 大留城主(現:春日井市)。池田信輝と共に戦死。生存説あり。               死亡後に織田信雄の分限帳に名前あり。               元和5年御切米帳模(南紀徳川家)に名前あり。               子安神社(春日井市)の石碑には「村瀬作右衛門」   ------------------------------------------------------------------------------------------   春日井市 郷土誌かすがい 第6号より   ------------------------------------------------------------------------------------------   大留城は、庄内川と井高川の合流点で大留橋より上(かみ)、子安神明社一帯の地にある。   天文15年(1546年)将軍足利義輝の配下村瀬氏が領地に築城し、その子作右衛門が城主となり、   篠木荘一帯の領主として勢力があった。天正12年の小牧長久手の戦の時には、   家康側は村瀬作右衛門を大将として森川権右衛門の砦(大草村)に入れる計画であったが、   秀吉側は事前にそれを察知し、5万石の地をあたえると約束した。   作右衛門はこれに応じ、篠木、柏井の地侍達と池田信輝の軍に参加し、軍を導いて大日渡しより   渡河したが、長久手で戦に利なく討死した。   後に廃城となった。城域は、南は庄内川に臨み、東は井高谷、西は相模堀、北に堀の松本村より   幅6尺長さ650間の用水を設けていた。この用水は軍事的なものではなく、   農業経営者としての村瀬氏の一面をみることが出来るものである。   現在、子安神明社東側及び本殿裏側に堀の遺構がみとめられる。   ------------------------------------------------------------------------------------------   武功夜話より、   ------------------------------------------------------------------------------------------   村瀬作左殿は、親孫九郎尉旧来昵懇の人なり、尾州郡村の産なり。 ---大日本史料 第12編之19 より 元和元年5月7日 日向守家来廣田圖書、大關左次右衞門立ここへ鑓を合せ侯、窂人村瀨作左衞門も爰にて鑓を 合候、圖書は鑓下に突れ、既に首をとらるゝ處を、日向守自身走り付、圖書か 敵を突倒し、首を打せ不申候、其敵を突伏候處へ岸文左衞門懸付候ニ付、 鑓下の高名とハ是也、此首取候へとて取せ候、其後日向守を大將と見知て、 敵 三人段に懸り候を、日向守自身鑓を入突拂ひ、又首一ツ取申候、明石掃部 をハ日向守家人汀三右衞門討取、殘黨敗軍にて何とか櫻門へ押込候、  私云村瀨作左衞門は本多出雲守手に付て來たる牢人なり、出雲手をハ  離も、日向先手にて鑓合る、出雲討死にて家人武功の詮議、美濃守忠政二  被仰付、美濃守か云、出雲手にて事なけれハ、外の手へ行手ニ合候事、牢人  の身尤也、出雲手にて既に四本鑓を合せ、大將出雲も討死仕候程の場に  て手ニ不逢、日向守手へ參鑓合候事、合點不參候との事にて村瀨ハ立退  候、扨日向守家中六日七日兩日手柄勝たる事なれハ、御歸陣已後、一廉御  褒美可在之處二、日向守自身鑓を入候段御耳に達し、二條城にて、大和御  先手被仰付候時、此度ハ人數あつぅハモへき爲ニて候間、かならずゝ  昔のことく自身の働を不可仕と再三被仰付候上意を水に仕、自身鑓仕  段、切腹被仰付ても御飽無之と御腹立ゆへ、家中の手に合候輩一人も御  感に預る事不叶、右日向守鑓の相手四人の内二人ハ日向守討取、二人ハ  助かりて退候者一人ハ鹽川信濃一人ハ荒木權之丞といふ者也と云々、 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■伊予水軍ルート(村上源氏)  村瀬多宮延俊(1591年頃) 「因島村上五十八家衆」に名を連ねる。小荷駄奉行。  村瀬壱岐(1599年頃) 秀吉暗殺未遂事件の共同謀議に参加した者。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■磯貝-村瀬ルート(藤原姓)  村瀬重治(=磯貝重治)(1559-1633年)   織田信雄に仕え、主命で村瀬氏に苗字を改める。   倉知(現:関市倉知)を領有。水戸藩初代頼房の附家老となる。   妻は水野信近女、その先祖は源重宗(清和源氏・満政流)   ※その他、織田家から名前を変えられた事例。   ※塙→ 原田 塙直政(ばんなおまさ)。九州の名族の原田(はらた)姓を下賜される。   ※成瀬→磯貝(織田時代)→成瀬(徳川時代) 成瀬左馬之介。   ※池田→羽柴(織田時代)→松平(徳川時代) 池田輝政。   ※中田→柴田 中田義勝柴田姓を名乗る。勝定帰農し中田となる。一族勝家滅ぶ。   ※日吉丸? → 木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉 (本姓) 平秀吉   ※前野→小坂 前野孫九郎宗吉→小坂(おさか)孫九郎雄吉。信長の命。   ※生駒→蜂須賀→生駒 生駒因幡守利豊   ※佐々木→生駒 生駒主水。佐々木梅心の子。子孫は大和宇多にあり。   ※甚助→生駒 甚助道寿政久は濃州土田山城主。 ※生駒多数。   ※井口城→岐阜城 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■前野長康(キリシタン大名)ルート(尾張平氏)(1528~1595年)  稲木庄前野村(現:江南市前野町)。  当村今六姓あり吉田、岩田、野田、高田、村瀬、石川。六姓は何れも源は一にて前野氏也。  現在前野邑に前野姓は一軒もない。  村瀬氏の祖、村瀬松右衛門  ※1558頃、永禄頃から切支丹渡来其法次第に廣まり、長崎はその巣窟。  ※1565年、1569年 正親町天皇が出した追放令  ※1587年 豊臣秀吉の伴天連(バテレン)追放令  ※1596年 豊臣秀吉の禁教令  ※1612年、1614年 慶長の禁教令  ※1638年 島原の乱  ※1661年 寛文元年、光友吉利支丹奉行を置く  ※1859年 禁教令の緩和  ※1868年 切支丹邪宗門厳禁(明治政府) 武功夜話 -----  ※織田信長(1534~1582年)と川狩り(1559年頃)   織田信長様、川狩。親類の小折村の村瀬亀、同佐門太と川狩に興じなされる。   川役人の村瀬平九郎。  ※旧信長公従女の亀・茶が供奉し、家臣埴原加賀守がこれを護った。   この亀は村瀬亀か確認中  ※幼川の川奉行村瀬作左衛門家の亀、佐門太を供に藤吉郎をつれて川狩に興じ、夜は生駒家で... -----   幼川の名称がみえるが、これはかつての青木川合流点より上流の総称で、それより下流は五条川。  ※織田信長のフルネーム   平 朝臣 織田 上総介 三郎 信長(たいらの あそん おだ かずさのすけ さぶろう のぶなが) 氏 姓 名字 職名 字 諱  ※信長の小字は吉法師 ★村瀬喜(㐂)平次( -1609年)前野将右衛門尉手の者。         前野吉康は佐々成政家老の前野勝長の子として生まれる。初めは村瀬喜平治と名乗る。         時期は不詳だが佐々宗直と名乗って前野氏系佐々氏の祖となる。         佐々宗淳は、『水戸黄門』に登場する介さんのモデルであり、吉康の曾孫である。         前野左京は、前野長康の家臣秀次事件に連坐。長康父子自害後は長康の娘婿前野兵庫         忠康に従ひ、伏見の織田信雄邸に庇護され、信雄の斡旋で石田三成の家臣となった。         濃州関ケ原敗軍の後、上坂勘解由と江州へ逃れ候。         野田清助、散髪して常円開基の高徳山観音寺に隠れ、落人狩の落着を待って京に登る。         洛北松ヶ崎の岡田某宅にかくまれ、藤堂高虎の庇護をうけていた前野兵庫の妻室、         娘於台を訪れて、主人、兵庫の最期を告げると共に遺言を伝えた。         於台女は、前野三太夫吉高の次男助左衛門の妻となり、夫妻は讃州生駒壱岐守高俊         (美濃土田村生まれ、祖父が尾州小折村の二代生駒の養子になり、生駒姓を名乗る)         に召し抱えられた。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■藤堂高虎の親戚ルート(高虎の外孫)(1556~1630年)(嵯峨源氏?)  ①村瀬伊賀守吉正 - 伊豆守重次 - 市兵衛吉成 - 吉兵衛定(正吉、渡邊に改め秀忠に仕)   (佐々木六角家に仕) (佐々木家に仕) (織田信孝に仕ふ)  ②村瀬伊豆守(江州人。妻:藤堂忠高3女)-吉成市兵衛(高虎の外孫)-弥右衛門  藤堂高虎の外孫の村瀬市兵衛、子の弥右衛門が見える。  村瀬伊豆守-吉成(市兵衛)-(弥右衛門,市之助)  村瀬吉正 (伊賀守)-村瀬重次 (伊豆守)-村瀬吉成 (市兵衛)-渡邊 (村瀬)定 (吉兵衛)(-1649年)  -渡邊正友 (市十郎、七郎右衛門)(-1654/2/20)  -正利(-1724,76歳)-正春(-1744,62歳)-正順(鈴木忠行2男)  -正明(1790年頃)  村瀬吉正(仕える)  村瀬重次(仕える)  村瀬吉成(織田信孝に仕える)  渡邊 (村瀬)定(秀忠に仕える)  【村瀬吉成】   (市兵衛)。父は村瀬伊豆守、母は藤堂忠高の女。よって高虎の従兄弟に当たる。   天正十四年頃より、紀伊粉河に来て高虎に仕える。   同年、秀長が家康の居館造営を命じられたとき、高虎の下で台所門の普請を監督した。   慶長元年、板島に移り、後、兄弟が罪を得た為、吉成も辞して京都に隠れた。   慶長十四年、帰参を許され二百石、高虎より直に金奉行を命じられ鉄砲足軽五人を預かる。  【村瀬孫右衛門】(1859年)安政6年  飯田堀藩に勢州津藩藤堂家の元家臣で村瀬孫右衛門、養子房吉の親子が弓術師範として滞在していた。  この両名は、津藩弓術師範吉田六左門の門下であったが、意見が合わず出奔亡命し、飯田藩の食客となっていた。  このことを知った藤堂藩(27万石)は、不届き者として父子の引渡しをきつく堀藩(1万7千石)に申し入れてきた。  この村瀬父子は当時の藩主に仕え、きわめて誠実な人物であったため、藩士はこれを惜しんで藩主に助命を願い出た。  そんなことから石沢は、藩主の命を受けて側用人の資格をもって津藩に使した。  そして津藩と話し合って、村瀬家を断絶し藤枝家とすることを条件に、藤堂侯を動かし無事に落着させた。  1/10にも満たない小藩の代表が、藩の体面を表に出して強硬に申し入れてきた大藩と渡り合って、  事件を収拾した外交手腕が高く評価された事件であった。  このとき、石沢の人物を評価し、藩主藤堂侯を動かした大きな力は、津藩の藩儒斎藤拙堂だった。  斎藤は、この前年に飯田藩の隣領(中略)の領民(中略)飯田城下を通過せんとしたとき、これを阻止して(中略)  石沢郡奉行の働きを知っていたからだという(南山一揆)  ※飯田藩は石澤謹吾  ※津藩の応接役側用人は平井杢右衛門 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■服部正栄(まさひで)ルート(1600年頃)(1549?~1624?)(病死)(76歳)  村瀬平右衛門(ヘイエモン)は父を服部土佐守(服部正栄)といふ。其身も初は服部出雲守と號す。  慶長5年(1600年)之後御家に来り、土佐守家老村瀨掃部が苗字を取て、家名を替村瀨と名乗。  土佐守は秀吉公に仕へて有し者也。後利長公へ被召出也。  服部正栄(まさひで、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣秀吉の馬廻。土佐守。  越前の検地奉行であった服部正栄の10000石の所領のうち、5800石余りは、  「上川はた村」「別所村」「大野村」ほか五か村からなっていた(「福井市史2」鈴木家文書)  ★(越前大町、中野村、なこ村、安部村、別所村、近江蒲生郡の内等)  越前での領地は足羽郡・今立郡の2郡8か村で5848石。  安堂寺町服部正栄、越前内一万石、兵力およそ三百人。  豊臣家組頭。秀吉と同郷(尾張中村)出身で秀吉の馬廻衆を務めた。  関ケ原の戦いでは豊臣家に属した。  所在:長浜城→姫路城→大阪城  ----戦国人名辞典------------------  服部正栄 (土佐守)秀吉馬廻、尾張中村の出身(服部系図)。  天正18年小出原の役に従軍(伊逹家文書)。19年4月23日近江蒲生郡の内266石を加増(鈴木文書)。  文禄元年3月秀吉の側室が肥前名護屋へ出発のとき随従(太閤軍記)、同城に駐屯本丸等を警備(太閤記)  慶長3年7月28日越前大町、上川はた村、中野村、なこ村、安部村、別所村、大野村、近江蒲生郡の内等、  5848石を加増され、本知4180石、合せて10,000石(鈴木文書)。同年秀吉の遺物兼元の刀を受領。  5年大戦のとき西軍に応じ、7月大坂安堂寺町を警衛(慶長見聞書)、戦後所領を没収された。  彼は諸国に於ける検地の頭目 だった。のち大坂へ入城、落城ののち前田利常に預けられ、  元和中加賀で死す(服部系図)。  服部出雲守(いずものかみ) 正栄の子、太郎八とは別人らしく 或は弟か。系図にはのっていない。  関ケ原の役に、初め西軍に属し、大谷吉継の北陸道示威進軍に随属。  しかし関ケ原の会戦には不参加。浪人の後前田利長に仕え1000石。  氏名を村瀬平石衛門と改めた(前田戦記集•越登加三州志)。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■長束大蔵(正家)ルート(1562-1600年)(大蔵姓?)  長束盛里(水口盛里)  ↓  長束大蔵(正家)(永禄5年(1562)-慶長5年(1600)10/3)  (父:長束盛里 母:不明 兄弟:正家、直吉、玄春)  (妻 正室:栄子姫(本多忠勝妹) 息子:助信、長吉、祐順、還誉岌閑、娘(青山正次室))   長束 正家(なつかまさいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。   豊臣政権の五奉行の一人。父は水口盛里(安芸守)といわれる。弟に直吉らがいる。   近江国水口岡山城主。   慶長5年、江州日野殺害。出身地は近江の土山説、尾張の中島郡稲澤(長束)説がある。  ↓  村瀬宗仁(1614年)(長束大蔵が子)豆州および東海所々の渚に、西国より早船着船... ※還誉岌閑(げんよきゅうかん、慶長5年(1600年) - 明暦3年2月15日(1657年3月29日))は  江戸時代前期の浄土宗の僧侶。  近江国水口家松山大徳寺三世門跡。父は豊臣政権五奉行の一人長束正家。母は本多忠勝の妹栄子 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■平針の庄屋ルート(1612年頃)、上杉謙信(1530-1578年)の臣  村瀬仁右エ門 平針宿初代庄屋。祖父は村瀬四郎右衛門。上杉家の浪人。         竹内伝兵エが養子となり村瀬家を継ぐ(村瀬伝兵エ)。         宿場町を開いた庄屋村瀬仁右エ門父子の墓は隣村赤池の龍渕寺にある。  平高望王・・・国香・・・胤秀・・・昌胤---胤知-重胤(仁右エ門)              (氏祖) (上杉家浪人) (村瀬氏祖)  越後の國主不識庵上杉謙信公の臣村瀬千葉之助胤臣(たねおみ)と称し、數度の戰功あるも、如何せし故  ありてか君が不興を蒙り、亡命して當國愛知郡南野村(現:名古屋市南区)に潜伏なし居る内、  村民の娘を娶り長男を挙ぐ、村瀨藤左衛門胤知(とうざえもんたねとも)と云ふ。  慶長17年3月同郡長久手合戦の砌(みぎ)り胤知は徳川家康公より平兒(ひらこ)山の道明(みちあけ)を  命ぜられ、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)直に命に応じ、村民数十名を引率して道明をなしたる功により  亂平(らんたひら)ぐの後、平針村に於て八町歩(ちょうぶ)の田地を拝領し、...  平針宿(本陣あたり)は、八事から塩釜口、植田東、平針西口、平針長田と現在の道路を走り抜け、  平針郵便局を通り越した右(南)手にあった。火の見が建っていて、平針薬局があるところ。  ここから少し東の平針東の信号あたりまでが、平子山というのであろう。...平針宿16件から3世紀半..  ・高山の村瀬仁右エ門  ・久保村(現:山口県下松市河内久保市)の村瀬仁右衛門   慶長15年(1610年)に西蓮寺(山口県下松市河内704番地 0833-46-0716)を創建。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■大村姓村瀬(大村藩)  ①  大村大和守藤原純明・・・村瀬忠(庄)右衛門・・・玄寿-玄甫-養拙-文栄-杏庵-尚徳              ↑祖         道知 ↑喜勝村瀨氏5世 ↑村田敬裕二男 嗣子  ※1839年、(天保10年)杏庵、村瀬姓を名乗る。邨瀬杏庵  ②  藤原純明-純益-純正-喜次(折敷瀬善右衛門)・・・村瀬善右衛門(1854年)嘉永7年  --------------------------------------------------------------------------------------------  適塾 (27)(適塾記念会, 1994-12) より  --------------------------------------------------------------------------------------------  『大村医史』大村市医師会、平成6年3月刊によってはじめて邨(村)瀬杏庵の履歴を知ることができた。  村瀬家の家系を左に示す。  杏庵は村田宗仙敬裕の二男として生まれ、天保10年(1839)村瀬家に養子として入り家督を継いだ。  適塾『姓名録』には第63番目に記名されている。その入塾年は記載されていないので不明であるが、  杏庵が村瀬姓を名乗った天保10年(1839)とはそれほど距った年ではない瓦町時代の適塾に入ったものと  思われる。  というのは弘化2年(1845)には杏庵は既に大村に帰藩していて、この年イギリス船の長崎来航に際し、  長崎に出張している。嘉永4年(1851)には御番医に任ぜられ可楽君の療養掛となり、翌5年侍医を命ぜら  れている。  同6年(1853)、純昌侯の室恭容院君の療養掛を命ぜられている。  安政5年(1858)の『大村藩医食録」によると杏庵の名で21石の扶持を受けている。  文久元年(1861)、杏庵は長與専斎、草野元養らとともに長崎養生所でポンペの指導を受けた。  しかし翌文久2年(1862)に没した。  杏庵の嗣子尚徳は岩崎栄轍の弟で、文久3年(1863)家督を継いだ。  -------------------------------------------------------------------------------------------  大村藩の医学 より  -------------------------------------------------------------------------------------------  醫官村瀨杏庵  村瀨家は俗稱庄右衛門を以て始祖と定む妻は峰氏吉勝の女小身たるを以て大村姓及瓜御紋章を辞退  す於是改て賜村瀨、喜實の子に玄賓、村田宗仙、竹庵、三右衛門は實子ならん。次は村潮道知(女叔)  妻及姓氏不明、道知の子に林垣(河內實相寺住職、某)あり林垣嗣ぐ村瀨寬(玄壽)實道知弟玄壽  始林垣還俗して相續するならん妻は指方文左衛門女。後妻近藤針庵俊兼女。始給扶持米若干後改藏  米又依勤功爲食祿二十五石。村潮喜道(玄貞)名玄昌元本に夭死とあり二女あるは疑はし妻は不詳〉  喜ぶ道一男二女あり長女本間養庵に嫁し二女早世喜勝嗣ぐ村瀬喜勝(玄甫)幼名鶴平母指方氏妻は朝長  長次右衛門妹期和九辰年賜父遺跡。寛政四年列於侍醫格同五年病にて歿す。村潮喜恒(養拙)初名高  之丞母朝氏長妻不詳。村瀨喜春(文榮)林田彦六弟母不詳文政十三年賜遺跡。村潮喜和(杏庵)幼名百太  郎村田宗仙二男妻片山三右衝門徹義妹後妻福田與淸妹喜和死後離綠天保十年家督同年五敎館表生次  て寮生に進級す。同十五年阿蘭陀本國船長崎に來航の時大浦船固めを動む。弘化二年英吉利船長崎  に来航の時長與村に出張す嘉永四年町樂君療養掛を被命可樂君は危介にして花林軒に住居せらる。  同年御番醫となる同六年出府。安政元年恭容院夫人御病氣之節大儀に付御目錄拝領之。同二年免御  番醫文久二戊年十一月病で歿す。喜和男早世し二女くみ澤山精八郞妻。村瀬尙澤(喜憲幼名彌)岩崎  榮轍道軌弟嘉永六年日勤生後進級表定詰生を命ぜらる文久元年東肥遊學の爲め表詰生を辞す。同二  戊年喜和養子となる同三亥正月遺跡相績。 (村瀨家系譜) ---------------------------------------------------------------------------------------------- ---------------------------------------------------------------------- 999 その他の村瀬 滋賀縣野洲郡中洲村小濱 (旧)石川寺(北辺山) 滋賀県野洲市比江里の内 (新)石川寺(号 高音山) 小浜ムラセ(中洲村?)(現サンマイ)(現滋賀県守山市小浜?) 守山市小浜の称名院墓地 近江の石造美術 6 比江村小浜村 上田鐐次郎釆地 石川寺 浄土宗 天平宝字元年普照開く - 近江輿地志略 中洲村 ← 新庄村、服部村、立田村、幸津川村、小浜村(現・守山市)、吉川村、菖蒲村、喜合新田(現・野洲市) 阿保町、上津村、種生村、矢持村 → 青山町 いま東京都新宿区南伊賀町および北伊賀町は伊賀者衆の住地であった。  おとき上野の西北にある御斎峠を越えれば近江の甲賀である。昔から  伊賀流甲賀流と並び称せられる忍術二大流派がここに発祥した。 野洲川から水をとるための樋について 「竹の水道のこと 「小浜は、むかし村瀬というところにありました。水を求めて現在地に移って参りました。何年ぐらい前かわかりません。 むかし、中島丈右衛門という酒屋が池仲間を結成して、野洲川に池を掘り、小浜まで樋を通しました。 この樋は竹の節をぬいて作ったもので、竹が古くなって紙のようになっても川底に伏せてあるので水圧が等しく、 長持ちしたもので、よく合理的に出来たものでした。(小浜町)」 ◎小濱村(往古は字村瀬)(現:滋賀県守山市小浜の南東か?中洲市か?) ◎三重県伊賀市霧生字村瀬(旧:名賀郡矢持村大字霧生字村瀬) 〇静岡県磐田郡袖浦村字村瀬(現:静岡県磐田市 竜洋袖浦パーク付近か?) △村節村(往古は字村瀬)(現:静岡県浜松市西区大字村節)  (明応の大地震(1498年)により、浜名湖の今切れ口辺りにあった村が津波により壊滅) ?愛媛県上浮穴郡久万町東明神村字村瀬 ?山形県米沢市下新田字村瀬秋田屋内 ?茨城縣西茨城郡大河田村大字村瀬(大池田村?) ?奈良縣宇智郡大河田村(大阿太村?) 村瀬の沢 北海道瀬棚郡今金町字住吉、字中里 完成した所が播磨高潮村瀬事業として約八千五百万円をかけ、土手下の河川敷に續矢板を打ち ゆみ、の 鹿児島県鹿児島郡三島村黒島 南側には村道村瀬線が伸び 洌賀は洲で川中の砂洲 興福寺領小綱庄 長崎県対馬市豊玉町小綱 姫瀬 村瀬氏 この地の村瀨助一氏宅地のうら、南むきの山の中腹にて發掘したといふ。矛はその當時原友一郞 二日大船越御普請仕舞村瀬作兵衛庄村源右衛門罷登ル六月廿日報告の時点では、七月頃で大 私の日本地図 15 (壱岐・対馬紀行) 美濃国羽栗郡小綱村 美濃国各務郡小綱村 大謀網 この網は昔からこの島では個人経営ではなく、共同事業であった。 その漁業権をムラセという。(宮城県牡鹿郡川町江島) ---------------------------------------------------------------------- 岐阜市史 通史編 近世 清村 最も古い家柄は纐纈氏、それにつぐ村瀬氏。根村・加納・安江 ---------------------------------------------------------------------- 氏は源、本族は二瀬。中世改めて村瀬と為す。 世俗、源を呼びて本姓と為す。二瀬を以て本姓と為す。源と二瀬が興り、2姓為すなり。 姓は万世不易。豈(キ)に2つ有るべし乎(か)。氏族は則否らす。 中世以来今に至りて、復姓を賜わるを聞かず。唯「精紳世家」。 朝臣宿祢等2、3姓を存す。 しかも士庶これを称すを得ず。これを以て世俗遂に氏族 姓と興るを混し。 総じてこれを鄥寔(ウジ)と謂う。或いはこれを苗字と謂う。 鄥寔(ウジ)は即ち氏なり。苗字は即ち族なり。 後人例の通称を以て族に係る。名を以て氏に係る。その始まる所を詳にせず。 往古は庶民、名ありて姓氏なし。今は即ち氏族あらざる者なし。 しかも多くは源平藤原3氏に過ぎず。意ふに南北騒乱の間。 (中略) 侠爺の如く。氏は物部。族は萩生。名は茂卿。通称総右衛門。 萩生惣右衛門物茂卿と校す。書法允にあたる。 (荻生 徂徠(おぎゅう そらい) 1666-1728年) 近世に至りて2字もしくは3、4字の氏族。皆省いて1字と為す。 その字、雅(みやび)ならずは。 偏傍もしくは通音の字を取ってこれを易。藤原氏なり。省き藤という。 安藤齋藤遠藤近藤は族なり。 ---------------------------------------------------------------------- 姓は平安中期に至って殆ど社会的に意味の無いものと成り爾来僅かに儀礼上にその名を残すに過ぎない事 となった。院政鎌倉時代になって字から発達した苗字が発生し後にはそれが事実上の氏となった。 苗字は氏と同様地名が最も多い。 ---------------------------------------------------------------------- 【松平君山曰】織田信雄、小折村に産る。  櫻雲村 ■織田信雄 ・永禄元年(1558年)、尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷で織田信長の次男として生まれる。 ・大河内城の戦い(永禄12年(1569年))信雄、和議にて伊勢北畠氏の養嗣子となる。 ・天正7年(1579年)同年9月17日、伊賀攻め(第一次・第二次)  伊賀十二人衆と呼ばれる有力国人に率いられた自治集団である伊賀惣国一揆勢に大敗。 ・天正9年(1581年)、信勝は巡察師ヴァリニャーノに会うためにルイス・フロイスの修院(京都)を訪る。  キリシタンになりたいと考えていると述べるが、ヴァリニャーノは信長を追って安土に向かっており、留守であった ・天正12年(1584年)正月、池田恒興(勝入)と蒲生氏郷らは、信雄と秀吉の不和を調停するべく... ■暦の切替。ユリウス暦→グレゴリオ暦  ヨーロッパのカトリック諸国では、ユリウス暦1582年10月4日(木)の翌日を、1582年10月15日(金)  として、グレゴリオ暦を導入した。  この暦の切替えは、和暦では天正年間(グレゴリオ暦1582年10月15日=天正10年9月19日)に当たる。 ■本能寺の変 ・天正10年(1582年)6月2日、信長が本能寺で、信忠が二条新御所で、家臣の明智光秀によって討たれた。 ■清洲会議 天正10年(1582年)6月27日の清須会議では、信雄と信孝が激しく嗣立を争ったが、 織田家督は信忠の遺児・三法師(織田秀信)と定められ、天下人を定めずに4人の織田家の宿老 (柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興)の合議制とされた。 遺領配分では、信孝が美濃国と岐阜城を手にして同城で三法師の後見役(養育役)となったのに対して、 信雄は新たに尾張一国を与えられたに過ぎなかった。嫡出の次子として織田家督を望んでいた信雄にとっ て大いに不満の残る結果だったが、すぐに本拠地を尾張清洲城に移し、尾張・伊賀(三郡)・南伊勢の 約100万石を知行した。 ■小牧・長久手の戦い ・天正12年(1584年)3月7日 ■信雄キリスト教に改宗 ・天正16年(1588年)先にキリシタンになっていた叔父で筆頭家老の織田長益の勧めで、  信雄はキリスト教に改宗している。ただし、時期は不明だが、後年には棄教したらしい ■秀吉激怒 天正18年(1590年)秀吉は激怒して、いきなり信雄を追放して下野国那須烏山に放つ。捨扶持が2万石。 信雄は佐竹義宣の預となるが、『秋田佐竹譜』には、常陸国太田城に留め置かれ、次いで出羽国秋田へ遷したとある。 7月15日、信雄は安東実季(秋田実季)の預とされて出羽山本郡琴丘町(現三種町)天瀬川に配流になり、 従者浜田与左衛門をつれて、小玉徳右衛門方に閑居。 天正19年(1591年)5月2日、泉州堺に戻った信雄のもとを家康が訪問している。 (燃やされて大坂に屋敷のない)信雄は伊予国に移住することになり、伊予道後の石手寺に入って 剃髪して常真(じょうしん)と号した。以後、同寺で寓居する ■秀吉死亡 慶長4年(1599年)2月18日、秀吉の葬式が行われ、常真も百名の供をつれて葬列に参列した ■関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日(1600年10月21日)) 慶長5年(1600年)の関ヶ原の役では親子で西軍に与した。 越前大野城にいる嫡男の秀雄がこれを聞きつけて驚いて急使を派して、当家の人々はいかなることがあっ ても徳川家に弓を引くような浅ましいことがあってはならないと諌めたので、 常真もその通りだと思い直して、どうするかと思案している間に、関ヶ原本戦が終わったとしている。 西洞院時慶の『時慶卿記』(ときよしきょうき) では、8月21日、常真は西軍に応じて尾張に入り、 次いで東軍に転じたとする。 『寛政譜』には、西軍加担のことが書かれていないが、常真は家臣の村瀬左馬助を派遣して畿内の情勢や 三成謀反を下野国小山や宇都宮に知らせて、東軍に内応して気脈を通じていたことが強調されている。 戦後、常真は改易されて失領して浪人となって、大坂城下で隠遁生活を送った。 常真はまた天満の自邸に住んだが、秀雄は再起を期して武蔵国浅草に閑居した。 慶長12年(1607年)、信雄が織田氏に復して以来、断絶していた北畠の名跡を惜しんだ朝廷が勅をして 北畠氏を復興し、中納言中院通勝の子を北畠親顕として継がせた。 ■大坂の陣にて再興 慶長19年(1614年)9月27日、常真は大坂天満を退いて京都龍安寺に寓居した。 家臣佐々木高一(六角高一)が柴舟の船底に常真とその家族を隠して淀川を遡って脱出したという。 10月26日常真は五山の僧と、二条城で家康と面談した。秀頼より(大坂城入りを誘う)密談があったが、 すでに家康に内通していたのでこれに応じなかったという経緯があり、家康は常真に知行地を給付すると 約束した。家康は以後も常真を織田家の御曹司として破格に遇しており、関西の諸大名に京都に寄ること があれば常真のもとを存問すべしと命じたという。 ■安土城放火の嫌疑 ルイス・フロイスは本能寺の変時の安土城焼失を信雄の命令であるとしているが、 信雄はキリシタンになって棄教したことから愚人として宣教師は厳しく評価しており、注意が必要である。 ■明治以降の士族困窮 ・削碌または廃碌 ・明治10~14年における惡性インフレーションのための米価急騰と秩碌乃至公債の暴落 ・所謂「士族の商法」のための失敗 ・明治14年後のデフレーション 姓氏家系大辞典 第3巻 知多万歳 万歳の起源については伝統的であるが、大高・藪・寺本が名古屋の長母寺領であったことに始まり... 御万歳は信仰的な要素が多く、... 横須賀から寺本の付近では、土御門(つちみかど)家を後ろ盾とした陰陽師の活動が盛んであり、 土御門家役所よりの万歳定(さだめ)を大高の陰陽師よりうけた資料もある。 水戸黄門/水戸光圀・・・ 佐々木助三郎・・・モデルは実在の光圀に仕えた佐々宗淳(別名、佐々介三郎(さっさ すけさぶろう)) 渥美格之進・・・モデルは実在の水戸藩士・安積澹泊(通称、覚兵衛)といわれている。 風車の弥七・・・特定のモデルは存在しない。 うっかり八兵衛・水戸光圀一行の諸国漫遊の旅のお供をするドジな町人。光圀の密偵・風車の弥七の子分を自称し、旅に出ない時は光圀の住む西山荘で使用人を務めている。町人なので名字はない。 霞のお新・・・・初代風車の弥七の妻であり、弥七の元親分で忍び崩れの義賊・野ぶすまの仁平の一人娘。 佐々木志乃・・・ 梟の左源太・・・初代風車の弥七(演:中谷一郎)の兄・弥平次(演:武藤英司)の息子である。梟の術の達人であり、そこから弥七に見破られる。         尾張徳川家に恨みを持つ島ヶ原の忍者・平岩一族の一味として、尾張家を陥れようと暗躍する         最終話で、左源太は伊賀の里に帰る。 かげろうお銀・・大和国(現在の奈良県)・月ヶ瀬村出身。伊賀忍の上忍三家の一角である藤林一門の頭領・藤林無門(佐野浅夫)の孫娘 疾風のお娟・・・風魔一門の山賊に育てられた女風魔の頭領で、せん(清水あすか)・みつ(児玉百合香)・ひで(尾上彩)のくノ一3名を配下とする。 柘植の飛猿・・・モデルは存在しない。越中富山の薬売り 煙の又平・・・・根来忍者?紀州に帰る 鉄羅漢玄竜・・・五島藩の筆頭家老の命令で水戸老公の命と五島藩の安里姫の誘拐を狙った。 堀田備前守・・・水戸光圀(水戸黄門)の敵対者で、幕府の重役。先行する柳沢吉保に代わる存在である。 柳沢吉保・・・・各地の藩の悪人と手を組み賄賂をもらったり、藩の改易を狙った。 助さん・・・佐々木助三郎(介三郎、助さん) 格さん・・・渥美格之進(格さん、または厚見角之丞など) 家老の山野辺兵庫 忍者(風車の弥七、霞のお新、かげろうお銀・疾風のお娟、柘植の飛猿など) 、湊川神社へ楠木正成の墓参に行くなどの尊王論的色彩が強かっ ---------------------------------------------------------------------------------------------- 村瀬家文書 ●埼玉県 (明治13年) ・武蔵國高麗郡紺屋村 祖先は甲源氏なり武蔵國高麗郡紺屋村に住し代々農を業となす、 深川の村瀨といふより、蛤町の鬼八。市会議員村瀬八蔵 日吉村大字半原の村瀨彦左衛門 久作氏の本家の婿。村の信頼も厚く、勿論血統は超清良の家柄 深戸村瀬家 国民奉公録 : 聖戦記念 村瀨家は元難波姓を名乘つて居たりしも中興にして村瀨姓と改稱す。累代產業 女性開眼 川端康成 村瀬の庭で・・・ 川端康成集 (新潮日本文学 ; 15)村瀬家はここではいい杉山持ちだし、苗子は骨身を惜しまずに、働いているか ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■旧石器時代 – 紀元前14000年頃 ■縄文時代 前14000年頃 – 前3-5世紀 ■弥生時代 前3-5世紀 – 後3世紀中頃 ■古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃 考古学的には、古代に氷上姉子神社の北方には年魚市潟(あゆちがた)[15]の入江が広がったことが知られるが、 この入江を囲む熱田台地・笠寺台地・南の台地にそれぞれ熱田社・知我麻社[注 8]・氷上姉子社といった熱田神宮関係社が分布する特徴がある[16]。 古墳の分布によればこれら各地に在地首長の勢力があり、それらは立地的に海と関係する集団(海人族か)であったと見られる[16]。 しかし笠寺台地・南台地の勢力は衰退して熱田台地の勢力(尾張氏)の下に入ることから、それを機に首長の統治権・祭祀権が吸収されたとし、 その時に知我麻社・氷上姉子社も熱田社の神統譜に組み込まれたとする説がある[16]。この説の中で氷上姉子神社周辺に関しては、 4世紀末に築造された兜山古墳(東海市名和町、直径40-50メートルの円墳:非現存)の後の首長墓が見られないため、 5世紀初め頃に尾張氏の勢力下に入ったと推測される[16]。 航海術に長けた海人族(あまぞく)(水人)の渡来、安曇族とも呼ばれる 海人族の出自は不明である。南方民族、高句麗、新羅、百済のいずれ。強いていえば新羅系中心と言えそう。 地名学者の説によると、「アジ」のつく地名、味鋺、安食荘、味鏡理は百濟系。 大井、大野木、大曽根、大野と「オオ」のつく地名は南朝鮮の加羅 全国神社名鑑 白山神社、白髪神社は新羅系渡来人の守護神社という。 そして新羅系の渡来人は、名古屋の東北から西北方にかけて住み着いたという。 次に物部氏は、高句麗系の勇猛な兵団といわれ、大伴氏とともに... 縄文時代の終わりごろ天孫族に先駆けて大和に進出、物部王朝を築いたという。... 尾張氏も新羅系の線が強いようである。...尾張国造に任命された。 ■飛鳥時代 592年 – 710年 ■奈良時代 710年 – 794年 勢力のある貴族、寺社や豪族におしきられ...貧しい農民を使って土地を開拓し...奴婢(一種の奴隷) 醍醐寺領 安食荘 安食氏 農耕のかたわら武芸を学び、荘園を侵略から守った。また戦があれば主人に従った。 「国司は倒れても、土をつかめ」という言葉が出るほど、尾張では酷く、ついに我慢の緒が切れた 尾張八郡の群司と農民たちは、国司、藤原元命(もとなが)の背任汚職を、中央の太政官に訴えるため京へ。 国司リコール運動の訴状で、永延2年(988年)「尾張国郡司百姓等解文」 大須文庫にある。 祭神は 玉依比売命、応神天皇、神功皇后 綿は海(朝鮮語で海の意)の仮字で、和田とも書く。 南朝鮮から北九州志賀島に渡り、... 脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆、長宗我部元親など日本の水軍、海軍、海賊、海賊大将 2026/8/15 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■平安時代(794–1185年)  村瀬貫名(808年)大同3年『大同類聚方』 母良世薬。安倍朝臣廣澤麻呂の方。御津神社。  ※参考 前野氏文書「武功夜話」   保元・平治の頃(1156-1160年)の昔から尾州稲木庄前野村95貫文の地を拠点として   郷主の地位を守り戦国の世を生き抜き戦ひ抜いた前野氏一族一門の歴史は、   またこの地に生を享けた尾州人の生活史でもある。   享保15年、前野氏吉田茂平次改書の享保改メに   当村、今、六姓あり。吉田、岩田、野田、高田、村瀬、石川、何れも源は一つにて前野氏也。   草分け遠祖より九百有年、世々前野村に住し、遠祖滝口を称し御所北面の武門也。   鳥飛兎走して繁族多し、戦国の世には武を以て鳴る者、青史に燦(あきらか)たり   愚老一族相議し散逸を恐れ改書する者也。と序文を記している。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■鎌倉時代(1185-1333年)  村瀬氏 (1300年前後)波江浪士村瀬氏(筑後國山門郡波江村?)。洌賀孫七朗の母方の祖父。  村瀬? (末期)  布袋野の開拓者村瀬氏の祖先。鎌倉時代末、岐阜の武士。            布袋野は文禄4年(1595年)には名前が見える。  ※参考   鎌倉時代から室町時代末期までの約400年間は、宇多源氏佐々木一族が守護となり、地頭となって、   近江一国を領有し、...   近江から相模、備前、出雲、隠岐、阿波、土佐の諸国に分布し、室町時代にはその隆盛の絶頂に... ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■室町時代(1336–1573年)(■南北朝時代(1337–1392年)■戦国時代(1467–1590年))  洌賀孫七朗   (1337年)洌賀孫七朗(敦之)延元2年(1337年)生。母は妾波江浪士村瀬氏女。  村瀬氏修験入我坊(1395年)應永2年 大龍院(現:名古屋市北区光音寺町2)(真言宗)を建てる。  村瀬五郎八内(1447年頃)文安4年頃、(西英賀系図)              浦上七郎右ヱ門子則行-近衡-近村(天満九郎四郎)-女=家従村瀬五郎八内  村瀬半左ヱ門(1514年)永正11年7月3日与勢の命を蒙て当館へかへる。播州英城日記 三木6世通規の時  村瀨與助吉重(1542年)天文11年7月7日愛智郡星崎住人。熱田神宮に吉行の刀を奉納す。(奉納書)  村瀬隼人  (1543年)天文12年2月氷上神社御遷宮祝詞文中             (現:氷上姉子神社、名古屋市緑区大高町火上山1-3)             大高城主水野大膳亮家臣、村瀬隼人が拝殿を修理... ◎村瀬氏(1546年)将軍足利義輝の被官。天文15年、大留城を築城。作右衛門の父。  村瀬茂介  (秀吉頃)村瀬長門守の父。伊東淸大夫、村瀬家へ養子に行村瀬茂介と云ふ ★村瀬千葉之助胤臣(たねおみ)(1550年頃)上杉謙信の臣。  村瀬覚左衛門(1558年)敏広に従って岩倉付となった尾張の土豪十家。             (武田、服部、青木、村瀬、稲田、柏葉、丹羽、立木、江口、小池)  村瀨忠太  (1558-1583年頃)三日市地侍 信孝に仕える。 ★村瀬亀   (1559年頃)信長様、川狩。親類の小折村の村瀬亀、同佐門太と川狩に興じなされる。        (1560年)永禄3年、蜂須賀党の者。大将蜂須賀小六殿。  村瀬佐門太 (1559年頃)同上。  村瀬平九郎 (1559年頃)(三州)古川筋の川役人。(豊川市の川?)(古えの長良川?,長良川の西)              (信長様)東出口古川の鮒格別の風味と御賞讃、至極満悦に候なり。 ★村瀬俊良  ( -1582年)(村瀬弥七郎)仕織田右大乃家。尾張国春日井郡平田村。天正10年卒。             法名洞雲庵永山壽昌居士。 ◎村瀬作右衛門 (1560年)大留の城(上大留村)城主。村瀨氏も小坂氏も織田家の屬士なるべし。            丹羽郡小折村の人、信雄分限帳に九日市場村、篠木村で900貫領すとあり、           春日井郡大留村に移り、織田家の御台地代官を務む、村瀬九郎助はその子、           左馬助与助藤吉郎に従ふ、長久手合戦、池田恒興の道案内を勤める。           蜂須賀小六の輩下。犬山織田勢に組せず、前野党小坂氏に組して信長側にあった。           岩崎城で鉄砲に当り討死。           その女墨俣参陣の前野武兵衛室。墨俣築城に加わった。  村瀬九郎右衛門 村瀬作左衛門の嫡子。竜泉寺まで退き柏井に逃れた(「武功夜話」より) ★村瀨重治  (1559-1633年頃)磯貝氏を称した父(磯貝新右衛門)は織田信長に仕えた。                幼いころより信長次男の織田信雄に仕え主命で村瀬氏に苗字を改める                村瀬左馬助重治、古渡住人、信雄臣、古渡、万場稲木で2000貫領知。  村瀬兵右衛門(1560年)桶狭間の戦い。             大将蜂須賀小六殿に、前野将右衛門(長康)、蜂須賀小一郎、村瀬... ★村瀨淨心  (1564年)永禄7年8月、高田村城主村瀨淨心、八劍神熱田神等六社を勸請す。             淨心(乗心,東心)は天正五年(1577年)に卒。  村瀬豊後守 (1564年頃)西濃土豪。(深尾三代実録による)  村瀬作右衛門(1570年頃)織田信雄12才頃。纐纈源十郎、村瀬作右衛門、林藤十郎もこの頃からの家臣              であり、尾張衆である(土方菰野家譜)  村瀬覚左衛門(1570年)元亀元年 小荷駄役。  村瀨虎丸  (1572年)二條において討ち死。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■安土桃山時代(1573–1603年)  村瀬左馬助  藤吉郎に従ふ。  村瀬与助   藤吉郎に従ふ。 ★村瀬喜(㐂)平次( -1609年)前野将右衛門尉手の者。合渡合戦後、前野村に逃る。寛永13年9月13日没         前野吉康は佐々成政家老の前野勝長の子として生まれる。初めは村瀬喜平治と名乗る。         時期は不詳だが佐々宗直と名乗って前野氏系佐々氏の祖となる。  村瀬平吉   輩衆39人。蜂須賀小六、同小十郎、前野小右、同左内、小木曾平八、武藤九十郎等  村瀬兵吉   桶狭間鳴海の取合 ☆村瀬大隅   弟古田五郎兵衛、共に勇士として知らる。(弟:村瀨太郞左衞門)  村瀨忠兵衞  脇坂安治の旗奉行。津田清幽(きよふか)の人質となる。 ☆村瀬八郎左衛門 奥村城主(本巣郡奥村、現:岐阜市・本巣市)。村瀬太郎左衛門もこの城に関係が..  村瀬學右衛門(1576,1582年) 御検地役人。平泉寺三千坊寺落聞書。(現:福井県大野郡猪野瀬村)  村瀬久助  (1576,1582年) 御検地役人。  村瀬覚右衛門(1578年) 総大将信忠。大将瀧川左近将監。上月城、毛利輝元の大軍に囲まれる。  村瀬    (1580年) 村瀬討死、家人八人江村東中江討死三(赤松氏・三木氏の文献と研究) ★村瀬(一族) (1581年) 阿保(あお)住。第二次伊賀天正の乱で北畠(織田)信雄軍に席巻される。  村瀬亦兵衛 (1582年) 兼山加治田取合ノ事。(賀茂郡加治田城)  村瀬又兵衛 (1582年) 兼山加治田取合ノ事。(賀茂郡加治田城)  村瀨千代  (1584年) 天正12年、尾州羽黒合戦之事 ★村瀬佐助長隆(1585-1655年)明暦元年没。歿年70(小堀遠州老臣ナリ)              武士・茶人。近江小室藩の家臣。小堀遠州に茶を学ぶ。「雪柳」を所持した ★村瀬吉成  (1587年)(市兵衛)。父は村瀬伊豆守、母は藤堂忠高の女。高虎の従兄弟に当たる。  村瀬六蔵  (1587年) 藤堂藩(津・久居)功臣年表 : 分限録 ☆村瀬八左衛門(1591年) 天正18年、攻小田原 移封吉田 向奥州 ★村瀬多宮延俊(1591年頃)「因島村上五十八家衆」に名を連ねる。小荷駄奉行。  村瀨權六郞 (1591年頃)蒲生氏郷が会津へ転封の際の家臣。近江武士、伊勢武士。  村瀬惣(宗)七郎(1593年)三之丸御番衆 (秀吉)御馬廻組 六番 堀田組。朝鮮の役に肥前名護屋  村瀬孫八郎 (1593年) 三之丸御番衆 (秀吉)御馬廻組 六番 堀田組。      城に駐屯。  村瀬宮内  (1594年頃)村瀬宮内飛脚。寿命院(駒井益庵)の遣い? 駒井日記   村瀬宗内  (1595年頃)駒井日記   村瀬九兵衛 (1598年頃)前田利政、馬廻の士。  村瀬七郎左衛門兼通(1600年頃) 徳川千姫 第1 (千姫牡丹の巻)(慶長年代) ☆村瀬八左衛門(1600年) 慶長5年、会津陣。慶長15年頃、船戸帯刀番大膳水野数馬村瀬八左ヱ門...  村瀬五郎兵衛(1600年) 美濃国呂久村(現: 瑞穂市呂久)              朋友高田村の村瀬五郎兵衛と横山太兵衛を誘い(曽根城攻めの為)瀬古村に ★村瀬平右衛門(1600年) 父を服部土佐守といふ。其身も初は服部出雲守と號す。慶長5年之後御家に    (ヘイエモン)       来り、土佐守家老村瀨掃部が苗字を取て、家名を替村瀨と名乗。              土佐守は秀吉公に仕へて有し者也。後利長公へ被召出也。  村瀬佐渡  (1600年頃)松平三河守(河内守?)家臣。娘が旗本梶川分勝(わけかつ)の妻となる。              分勝の長男分好、2男勝重 3男重政(元和2年,14才-萬治3年死,58才) 4男重良  村瀬清蔵  ( -1652年)徳川秀忠に仕う。断絶。源氏、紋:九曜巴。  村瀬作左衛門(1600年頃)関ヶ原戦後の尾張衆知行高2000石。  村瀬茂助  (1600年頃)春日井の人。関ヶ原戦後の尾張衆知行高200石。  村瀬忠蔵  (1600年頃)清村(現:岐阜市)の庄屋。戦国末期に移住したと考えられる。  村瀬覚右衛門(1600年頃)瀧川一益の家臣。 △村瀬権兵衛 (1600年頃)姫路藩。池田家の家士。神戸彦四郎組。 △村瀬新七  (1600年頃)姫路藩。池田家の家士。普請奉行。 △村瀬新六  (1600年頃)姫路藩。池田家の家士。鉄砲薬役。 △村瀬六太夫 (1600年頃)姫路藩。池田家の家士。不明。(上侍、外歩行侍、歩行弓合、鉄砲、 △村瀬金右衛門(1600年頃)姫路藩。池田家の家士。不明。  伊賀者、小者、船頭、かこ)  村瀬源大夫 (1600年頃)岡定俊(岡左内)用人。十年かかって小判一枚を倹約。  村瀨(服部)(忠吉頃) 丁部第二 忍(おし)新参衆。忠吉君改封武州忍城時...  村瀬番右衛門(1601年) 慶長5年、郡上八幡之城 二ノ門の狭間ゟ  村瀬    (1602年) 五條市小和町 金剛山で知行。  村瀬宗七郎 (後期)  名護屋御留主在陣衆 堀田組。  村瀬喜八郎 (後期)  名護屋御留主在陣衆 堀田組。  村瀬佐渡某       松平三河守家臣。  村瀬享六 服部興(与)介組人足。  村瀨彌三右衞門 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■江戸時代(1603–1868年)  村瀬三郎兵衛(前期) 神君伊賀越えの関係者。摂州佃村の漁師30人。  村瀬所左衛門義益(前期)和算家。百川流を学んだ後江戸で礒村吉徳の門人となり下総関宿に住む。             寛文13年(1673)「算法勿憚改(ふったんかい)」(「算学淵底記」)             下總國葛飾郡關の住人(荒木彦四郎村英先生之茶話)            重能(毛利勘兵衛)-吉種(高原庄左衛門)-吉徳(磯村喜兵衛)-義益(算家譜略)  村瀬仁右エ門(1612年頃)、平針宿初代庄屋。  村瀬宗仁  (1614年)(長束大蔵が子)豆州および東海所々の渚に、西国より早船着船...  村瀬宗任  (1614年)長宗我部盛親、眞田幸村、仙石宗久、森勝永の如き関ヶ原の失敗者、             後藤基次、明石盛重、塙直次、御宿正知、村瀬宗任(むねたう)の如き不遇の士。             従来の部将としては大野治長、薄田兼相、渡邊糺、木村重成らが居る。  村瀬間左衛門(1614年頃)金森重頼公(1596-1650年)御抱の者。村瀬は尾州より来る。(神岡町史) ★村瀬平右衛門(1615年)大阪夏の陣。尼崎の城を守る。大村伊織竹腰八郎兵衛村瀬平右エ門在番す  村瀬六兵衛 (1615年)  村瀬右京  (1615年)元和元年5月7日、此役(大阪の役)に相従ひし諸氏には...  村瀬作左衛門(1615年)元和元年5月7日、本多出雲守(忠勝)の手に付きて来る窂人なり。  村瀬九右衛門(1615年)元和元年5月7日、ニ丸町口にテ首一、證人ハ横山大膳家人辰巳隼人也。  村瀬半之丞 (1615年)慶長20年・元和元年。池田三郎兵衛の家来? ?村瀬権十郎 (1615年)元和元年3月。明石掃部助配下。大阪城。敵:本多(正信?)。忍者、村井組の花村吾之助、作兵、くも丸  村瀬兵庫良清(1616年)元和2年3月,願に依り隠居し,還俗して村瀬兵庫良清と称した。1675年卒。  村瀬道三  (1618年)京師の典医延壽院。快き槍なり。(楽斎日記)  村瀬太次郎 (寛永) 古津村。厳入の門弟。  村瀬助之亟 (寛永) 福光。 厳入の門弟。  村瀬玄蕃  (寛永) 郡山藩(大和国)(現:奈良県大和郡山市)。水屋神事能乱闘事件。  村瀨彦右衛門(1625年)寛永2年。いせ(伊勢)村瀨彦右衛門芦川淸太夫。             寺社町奉行被(永保記事略 : 藤堂藩城代家老日誌)  村瀬助太夫 (1625-1699年)村瀬佐助の子。小堀政恒に仕える小堀家老臣。享年74歳。子佐太夫和倫。  村瀬小三郎 (1626年)寛永3年、佐渡御船橋白口縄之割。縄六束。  村瀬孫右衛門(1629年)寛永6年、儀牢舎 御免之事 △公儀大赦ニ依而也  村瀬九右衛門(1630年)寛永7年、九右衛門子(忠蔵、四郎右衛門)と共に、前田利政の子直之と喧嘩             寛永8年(1631)6月下旬の夕刻≪鬼川(現大野庄用水)の喧嘩≫  村瀬五郎兵衛(1630年)伊那郡虎岩村平澤新十郎に上ゲ綿の代米を渡す。  村瀬新右衛門(1632年)米子城代荒尾成利の家老。藩米子・倉吉を荒尾家に全権委任「自分手政治」 ★村瀬平四郎 (1634年)倉知村の領主。  村瀬源丞  (1634年)安曇郡水野忠清領 百姓?  村瀬半兵衛 (1636年)尼崎藩。  村瀬四郎兵衛(1636年)石谷十蔵家人。  村瀬理兵衛 (1638年)伊那郡大草村 百姓?  村瀬高左衛門(1639年)(岩倉市史)鍛冶屋村瀬高左衛門藤原安次... 神明太一社再興。              濃州伊久良河宮(瑞穂市居倉(いくら))より清州中島宮へ奉斎リシ...  村瀬彦左衛門(1641年)濃州郡奉行。  村瀬藤左衛門(1642年)寛永19年9月、検地奉行。(徳田村の内、尾張領新田)  村瀬藤右衛門(1644-年)尾州郡奉行。任期(寛永21年正月~寛文8年2月)。「國秘録役寄帳書抜」 ★村瀬家 (1644-1872年)  大坂御番所の主任格を約230年間務めた(徳島県板野郡板野町大宮東谷)           屋根瓦の一部に卍印(蜂須賀家紋)を残し、武具・捕物道具の一部を伝えている。           大坂口御番人 村瀬貞六。  村瀬玄的  (1646年頃)細川越中守(細川忠興)家臣。妻は吉田宗活(そうくわつ)女。  村瀬弥三右衛門(1646年頃)(郡上)城下町の北部の町の名主(鍛冶屋町)。              大野太郎左衛門・子弥平次・九平が弥三右衛門暗殺の計画を立てた。 ★村瀨彦左衛門(1649-1661年)(美濃)三ヶ村代官。任期(慶安2年~寛文元年)  村瀬源大夫 (1654年)姫路藩。 △村瀬権之丞 (1657年)明暦3年。十番の流鏑馬。(壱番)(池田家履歴略記) △村瀬勘九郎 (1658年頃)明暦4年頃。建前 内侍■(所?)方(池田家履歴略記) △村瀨又右エ門(1660年頃)阿波藩。住吉丁南浜西ヨリ (阿波藩御家中分限帳)(蜂須賀山城 頃) △村瀬文吾  (1660年頃)阿波藩。祇御蔵丁新屋敷□袋小路下代押廻 (阿波藩御家中分限帳)  村瀨九右衛門(1660年) 火薬庫 田宮に在り.青銅砲五あり並に萬治3年村瀨九右衛門造る所.(阿波誌)  村瀬彦左衛門(1661,1664年)北方代官(尾張國葉栗郡北方村 中島・葉栗(中島・葉栗・厚見・安八))  村瀨平左衛門(1661-1678年)大代官。任期(寛文元年~延宝6年10月9日)  村瀬弥市良内三(1664年)奥長尾村。長尾(なご)銀山の関係者約77人。 △村瀬権兵衛 (1664年) 寛文4年。十番の流鏑馬。(六番)(池田家履歴略記)  村瀬彌兵衛 (1665年) 國主(金森)頼直の逝去を聞き、高山町より、悔の飛脚を立つ。霊泉寺記  村瀬支考  (1665- 年) 山縣村大字北野村瀬兵四郎の次男として生まれる。                 近江國石山幻住庵にありし俳人芭蕉の門人、所謂十哲の一人。  村瀬金右ヱ門(1666年) 寛文6年。総行列の次第。火消組付助次郎手。(池田家履歴略記)  村瀬平右衛門(1668年) 尾上村(岡山藩?) ★村瀬藤馬  (元禄)(1688-1704年)讃州丸亀の領主京極の侍。尼崎幸右衛門の娘、利也(りや)は父の                    仇(岩淵)を討つべく村瀬藤馬と江戸へ。  村瀬平右衛門(元禄)(1688-1704年)尾張藩代官?  大工 藤原村瀬長九郎(1652年)岩村藩  各務支考  (1665-1731年)俳諧師。蕉門十哲の一人。村瀬吉三郎の子。別号に東華房、西華房、              獅子庵などがある。美濃国山県郡北野村西山(現在の岐阜市)出身。  江島其磧  (1666-1735年) 京都誓願寺通柳馬場角の大仏餅屋・村瀬正孝の子で、名は権之丞、...  村瀬所左衛門 (1669年)寛文9年7月、被召出、小勘定組頭。本国佐渡。(野田市史料集)              関宿世禄之記録。関宿藩主久世広之(承応年代)  村瀨弥五右衛門(1670年)厚見郡清村。百姓。先祖本巣郡奥村の村瀨等斗ニテ  村瀬平右衛門(1671年頃)加賀藩前田家分限帳(寛文11年侍帳)  村瀬左近  (1671年頃)加賀藩前田家分限帳(寛文11年侍帳)  村瀬忠次郎 (1676年) 濃州郡上郡 聞番。  村瀬平左衛門(1677,1678年)北方代官(尾張國葉栗郡北方村 中島・葉栗(中島・葉栗・厚見・安八))  村瀬九左衛門(1678年) 阿波国徳島藩。第5代藩主蜂須賀綱矩(はちすかつなのり)  村瀬亀之助 (1678年) 金沢藩士。松崎十九郎いとこ村瀬十郎右衛門二男亀之助を養子とする。 △村瀬平右衛門(1680年) 延宝8年。伊木頼母組上下村瀬平右衛門引廻し(池田家履歴略記)  村瀬徳右衛門(1682年) 野州郡赤野井村 ★村瀨彦兵衛 (1682年) 江州大津に入る村瀨彦兵衛といふ浪人よし屋町にて槍術を教授す              此村瀨は越前大野にて槍の修行をなす其頃名を高津彌右衛門と称したり。              松平直明公に召抱かへられ知行300石を賜ふ。  村瀬岡右衛門(1684年) 五十人御目付。同名弥次兵衛子。但し親と不通。   村瀨伊左衛門重房(1685年)貞享2年出羽國山形城の引渡役を谷衛将(もりまさ)とつとむ。 △村瀬勘左ヱ門(1686年) 貞享3年。其他諸役人。銭□の役徒目付(池田家履歴略記)  村瀬彦助  (-1687年) 貞享4年。9月3日の晩、相応寺の住持(大道寺玄蕃弟也)玉相院に行、頓死。 △村瀨安兵衞 (1687年頃)備前國人。(佐柿入道常圓物語)(高松城攻之物語)              (伊木?)勘解由家来村瀨安兵衞へ池田大学申渡す。(池田家履歴略記)  村瀬武兵衛 (1687-1771年)村瀬信休の5男。17歳で久世家に入る。母は和歌山藩士高橋氏女。74歳  村瀬平左衛門(1688年) 三村大代官。尾州郡奉行。御用林七左衛門の一人。  村瀬弥次兵衛(1692年) 元禄5年9月14日 元禄下級武士。  村瀬弥二兵衛(1694年) 元禄7年、(鸚鵡籠中記)繰替の衆。  村瀬孫七  (1694年) 元禄7年、替屋敷被仰付。(建中寺前)(現:名古屋市東区筒井1丁目)  村瀬彦左衛門(1694年) 京都留守居村瀬彦左衛門小者表御門くぐり...              (永保記事略 : 藤堂藩城代家老日誌)  村瀬郷左衛門(1694年) 羽州村山郡上山御在城 金森出雲守様御家中諸士分名前帳。金森家関係文書集 (上山市史編集資料 ; 36)  村瀬治郎左衛門 〃     〃  村瀬幸介  (1696年) 元禄9年、(鸚鵡籠中記)外科。村瀬弥次兵衛幸介。  村瀬平左衛門(1697年) 元禄10年、(鸚鵡籠中記)大公之命ヲ受ケテ東武ニ趣ク。  村瀬半平  (1697年) 元禄10年、(鸚鵡籠中記)加藤伊織処於に文会。鈴理右・村瀬半平、在之。  村瀬伝治郎 (1697年) 元禄10年、(鸚鵡籠中記)御馬廻彦左衛門弟。(鸚鵡籠中記)  村瀬才右衛門(1698年) 元禄11年。(鸚鵡籠中記)  村瀬周節  (1694-1771年)  村瀬源三郎 (中期) 歌舞伎作者。上方の出身。             江戸森田座をへて享保8年中村座の作者となり、2代市川団十郎のために作劇。             市村座の2代津打(つうち)治兵衛,森田座の津打半右衛門とならび称された。             「楪根元曾我(ゆずりはこんげんそが)」等。前名は近松源三郎。俳名は五舟。  村瀬勝成  (1700年頃)妻:生駒親興(出羽矢島藩主・生駒高俊の三男)の娘 △村瀨久太夫 (1700年頃)元禄13年頃。(池田家履歴略記)  村瀬市右衛門(1702年) 尾張藩鉄砲鍛冶 国友甚兵衛に斬り殺される。のち国友自殺(鸚鵡籠中記)             元禄15年(1702)4月28日昼に台師西村理右衛門宅(旧:日置村、現:中区松原)             で(国友が)浪人村瀬市左衛門を切殺して、白坂雲興寺で自殺。 △村瀬圑右衛門(1704年) 宝永元年、村瀬圑右衛門三男弥兵衛も出生す。(池田家履歴略記)              正徳3年(1713年)江戸に赴く。丹羽七郎左ヱ門江戸に赴く。  村瀬九右衛門(1704-1711年頃)宝永年間。加賀藩。三壺記(みつぼき) △村瀬弥兵衛 (1704年) 宝永元年、保国公領池田玄蕃遺跡 護持院火警。(池田家履歴略記)  村瀬彦左衛門(1705年) 宝永2年。於江戸御供番。御役義不得手故、御役被召放、御馬廻。  村瀬養健  (1707年) 宝永4年。中条作太夫屋敷、御同朋並村瀬養健に被下。              宝永5年還俗、御側寄合となる。  村瀬自休  (1708年) 宝永5年。(鸚鵡籠中記)              荒尾喜右衛門は村瀬自休が子なり。荒尾六右衛門処へ入聟に来り、称荒尾。  村瀬弥兵衛 (1711年) 宝永8年。(鸚鵡籠中記)  村瀬彦蔵  (1708年) 相応寺東の方、下馬札を失たり。按に近所の悪党村瀬彦蔵・成田林蔵等が..  村瀬十郎右衛門(1712年)いとこ松崎十九郎義。(信濃? ←金沢藩士)  村瀬亀之介 (1713年) 正徳3年。(鸚鵡籠中記)十二郎狂言。傾城明石の浦。  村瀬藤六  (1713年) 正徳3年。(鸚鵡籠中記)  村瀬藤七  (1714年) 正徳4年。(鸚鵡籠中記)  村瀬彦左衛門(1715年) 正徳5年。ぎふや村瀬彦左衛門(鸚鵡籠中記) ★村瀬三郎左衛門(1715-1791年)寛政3年6月28日、武術の師村瀬三郎左衛門死す。年76。浄源寺。         (1781年)天明元年6月21日、為家君招石川大夫及村瀬三郎左衛門武藤弥大夫飲宴。              子は村瀬三左衛門。(岩槻市史(児玉南柯日記))              ※児玉南柯は武州岩槻藩大岡氏の家臣、藩儒。本姓は豊島氏。               12歳の時、藩士向井一郎太に句読を学び、鍐老禅に道を問い、               この他武術(弓・剣・鎗)は村瀬三郎左衛門、馬術は鈴木友七、               書は野崎彦右衛門に師事。  村瀬弥兵  (-1716年) 享保元年。没。  村瀬忠右衛門(1717年) 享保3年。奉行。山極猪太夫様御手代村瀬忠右衛門様。(和村誌)  村瀨九兵衛 (1720年) 尾張藩士。御馬廻組 村瀨彦左衛門二男。御目見 村瀨九兵衛。 △村瀬平右エ門(1725年) 享保10年。平右エ門、(伴)甚八郎を安藤豊左衛門宅へ呼入療治を。  大貳先生(1725-1767年) 甲斐國巨摩郡篠原村(現:中巨摩郡龍王村字篠原)生まれ。野澤山三郎の次男。              甲府城与力・村瀬家の株を買って甲府勤番士となり村瀬軍治と改名。              弟の武門が殺人事件を犯し、逃亡を手引きしたという理由で村瀬家は断絶。              山縣姓に戻る。尊王論が災いし「明和事件」で死刑となる。  村瀬湖十        深川湖十(2代)。甲斐の人。初代湖十の養子となり,享保18年2代をつぐ。              其角(きかく)座の中心人物として活躍。延享3年1月24日死去。本姓は村瀬。              編著に「犬新山家(いぬしんさんが)」「ふるすだれ」など。 ★村瀬栲亭(1744-1819年) 本名:源 之煕、本姓は二瀬。名は之煕、字は君績、通称嘉右衛門。              江戸時代後期の漢学者・儒学者。              遠祖は蔵人時行、多田満仲に仕え、後頼親に仕え、子孫備中を領す。              九代祖千代鶴中国の乱を避け氏を村瀬と改む。阿波國阿波郡香美村に隠居。              京都出生説、香美村出生説あり。              蔵人時行・・・お三輪(時蔵)莨屋源七実は坂田蔵人時行か?北条時行か ★村瀬大阜(1745-1820年)尾張横須賀に生まれる。家は兵庫屋という書肆。俳諧を加藤暁台に学び、              その死後は井上士朗に学ぶ。  村瀨左兵衛宗門(1751年頃)齋藤洪隆(ひろたか)の妻は村瀨左兵衛宗門が養女。  村瀬忠右衛門(1758年) 保々藤助組。淺草、本処御蔵見廻り。   村瀬帯梅(1758-1826年)尾張横須賀の豪商両口屋の当主。弥四郎を世襲する。              晩年、暮雨巷三世を襲名し、尾張横須賀の孤塚に庵を設けた。  村瀬穏成 (同年代)   村瀬良次郎(同年代)  良次。清須の人。  村瀬天地 (同年代)  補佐。  村瀬幸雄 (1787-1848年)通名伊右衛門、高山の人、享和年中歌学を修め後、専ら俳壇に立つ。             (水音社の泰斗であった。)風月を楽しんだ。嘉永元年没、年61。  村瀬忠左衛門吉尚(1774年)安永3年。臼杵藩。稲葉任重と関係あり。  村瀬忠左衛門吉忠  村瀨六左衛門  (1774年)安永3年。藩主徳川宗睦公放鷹の為め此地(方領村(現:甚目寺町))に至り、              村瀨六左衛門方に於て御小休みの際、名産大根の..その偉大にして.. ★村瀨伊左衛門俊淸(1776年頃)京極高燭(たかてる)安永5年に遺跡を継。時に29歳。妻は村瀨俊淸が女。 △村瀬小十郎子  (1780年)安永9年。(小姓組)村瀬小十郎子傷人。(富田町矢田部屋)(池田家記)               子何某12歳なるか只一人踏留り追来る者を待請て抜打に切付し...  村瀬平兵衛 (1783年)  川越藩 ★村瀬通吉(1784-1862年) 村瀬吉義。通称は庄兵衛、代々執政の家。臼杵藩。天保の改革。               天保9年通吉と名乗る。総役所(洲崎黒門外に創建)幹其事。 ★村瀬彦助  (1781年頃) 天明年間。横須賀村。  村瀬繁次  (1787年)  天明7年 筑紫従太郎様 御上御壱人 下45人 近習小姓。大野市史 ★村瀬彌五助 (1788年)  天明8年。横須賀町方。兵庫屋彌五助。豪商。  村瀨種左衛門(1789年)  (名古屋町方)橘町裏町東側。「橘町裏町家並御改帳」  村瀬喜右エ門(1789年)  秋田藩。総奉行。 ★村瀬甚三郎 (1790年)  寛政2年創業。名酒菊の露 布袋町大字小折村瀨甚三郎方にて製造す。               銘酒あら玉とラクノヨは布袋町布袋區元町三丁目の...               明治時代の村瀨酒造合資会社? ★村瀬藤城(1791-1853年) 江戸時代後期、美濃国出身の儒者・漢詩人。姓は源、村瀨氏を稱す。               美濃国武儀郡上有知村(現在の岐阜県美濃市)の庄屋村瀬敬忠の長男。               尾州領内53ヶ村の総庄屋。  村瀬権次 (1792年)   寛政4年8月25日晦昼後歩出... ☆村瀬立斎 (1792-1851年)尾張藩医。               美濃国武儀郡上有知村(現在の岐阜県美濃市)の庄屋村瀬敬忠の次男。               養子益斎、名は天寵、字は士承、立策と称す。布袋野村の人なり。  村瀬秋水 (1794-1876年)江戸後期の文人画家。笑社の社中。               美濃国武儀郡上有知村(現在の岐阜県美濃市)の庄屋村瀬敬忠の三男。  村瀬忠右衛門(1793年)  (北方町史)加茂村(庄屋・惣百姓) △村瀬久太夫 (1793年)  寛政5年。村瀬久太夫管代八家隷喧嘩。(池田家履歴略記)  村瀬松右衛門(1800年代)「信濃屋喜兵衛一家内輪中」(旧:丹羽郡前野村) ★村瀬太乙 (1804-1881年)美濃の人。名は外治郎、黎。字は太一。別号梅園、放屁先生等。               頼山陽(らいさんよう)の内弟子となり、儒学、書画を学ぶ。清貧。  村瀬益斎 (1810-1854年)尾張藩医。               名は大寵、字は士承、布袋野の村瀬幸右衛門の長男。  村瀬弥五助(1811年)  (横須賀,藪村)  村瀬彦助 (1811年)  (横須賀,藪村)  村瀬勘右衛門(1811年) (横須賀,藪村)  村瀬勘助 (1811年)  (横須賀,藪村)  村瀬平蔵 (1811年)  (横須賀,藪村)  村瀬文蔵 (1811年)  (高富町史)文化8年、村瀬姓名開証文。高富町梅原 榎並氏所蔵。紋九曜。  村瀬某  (1817年)   郡方惣代 野間郡大庄屋九王寺村某(村瀬氏か)(現:今治市の一部)  村瀬櫟山 (1817-1868年) 通称孫三郎、高山の人。染色業に名があつた。絵画又テン刻を好み...               明治11年没、年61。 ★村瀬佐右衛門(1822年)  文政5年。御蔵酒はすべて知多郡横須賀町方(東海市)の村瀬佐右衛門から、               江戸南新堀二丁目(東京都中央区)で酒問屋を営む伊坂市右衛門に送る。  村瀬八郎右衛門(後期)  尾張藩代官。  村瀬櫟園  (後期)   儒者。  村瀬魚親  (1824-18??年)魚親(なちか)。徳島富田下代町の人。村瀬文吾(興国)の子。父も画人  村瀬利兵衛 (1827年)  親族吉井七之丞を介錯。 ☆村瀬豆洲  (1830-1905年)尾張藩医。               明治21年9月30日、明治天皇第六皇女常宮昌子内親王殿下御生誕の時、               宮内省より命ぜられて上京し在東京の淺井正則その助勤を命ぜられる  村瀬嘉兵衛 (1830年) 御目附。文政12年12月牟岐沖に異國船が碇泊。  村瀬屋孫兵衛(1833年) 類焼者御救米。(高山二之町中丁福島屋より失火。617軒消失した)        (1835年) 一之町村(現:高山市)天保五年高山町組頭名。越中肴の負荷(ボツカ)宿  村瀬石径  (1835-1905年)名は信好、高山の人。書塾を開いた。漢学・詩。明治38年没、年70。  村瀬太又喜文(天保頃) (長崎)重建女村瀬太又喜文妻離縁后嫁福田友左衛門前方  村瀬いく  (1835年-) (北方町史)天保5.4.17生。村瀬信雄祖母。  村瀬みゑ  (1840年-) (北方町史)天保10.1.3生。陶器  村瀨宗兵衛 (1840年) (北方町史)天保10年。岐阜  村瀨甚左衛門(1840年) (北方町史)天保10年。尾州布袋野  村瀨性友七 (1843年) (北方町史)天保13年。ハルキ町  村瀬文輔  (1844年) (佐賀県史)天保14年。幕府の蝦夷・樺太巡見使平山謙次郎に随行。  村瀬勝弥  (天保頃) (北方町史)福田元吉雇人  村瀬忠兵衛 (天保頃) (北方町史)北方郡北方村3番地 呉服 太物 古物 「古着雑品」砂糖                   雑品「飴」今嶺村金作養母たき 村瀬忠兵衛方寄留厚籍厚見群。  村瀨太郎右衛門(1851年) (北方町史)嘉永4年。春来町庄屋  村瀨甚左衛門 (1852年) (福井県史)嘉永5年。尾州布袋野。(松平文庫)  村瀨新十郎  (1845年) 町奉行所興力 御石場改役格。         (1853-1859年)(美濃)上有知代官。任期(嘉永4年4月~安政5年11月)  村瀬譲(1854年)嘉永6年庄屋が村瀬家の家名を買収して村瀬譲と改名し、大阪市に病院を開業する          明治大帝の侍従医。終身皇室への出入りも許される。明治維新の3大蘭学医の一人  村瀬音次郎  (1854-1900年)(大阪)汽車土瓶の創始者。享年48歳。(甲賀市信楽町神山)                今より八代前、娘を所望されて大塩平八郎(大阪の与力)の妻となる  村瀬善右衛門(1854年) 大村藩。五教館の式典を執行。開垂帳、村瀬善右衛門  村瀬彌吉  (1858年) 安政4年12月6日 於三村清左衛門宅 秀策 彌吉」の記載あり。(囲碁)  村瀬八平  (1858年) 美濃下麻生、白滝秀五郎の舎弟。  村瀬厚英  (1859年) (小牧市史)安政5年、佐屋御代官支配所。海西郡平嶋新田。  村瀬周一  (1859年)    〃   〃      〃     御用懸医師。 ★村瀬孫右衛門(1860年) 安政6年、飯田堀藩の食客、弓術師範。元勢州津藩藤堂家の元家臣。              石沢郡奉行が津藩と話し合って、村瀬家を断絶し藤枝家とする事を条件              に藤堂侯を動かし無事に落着させた。              娘は幼名を留女(るめ)と云ひ19歳の時、飯田藩医須田珉庵譲の妻となった。  村瀬美香  ( -1896年)幕末~明治時代の尾張藩士、陶芸家「不二見焼」。(よしか)  村瀨彌左衞門(後期)  町奉行大草安房守の家人。 ×村瀨権右衛門(後期)  岐阜市中今町紙商。御望村生まれ、村瀬家へ養子となる。  村瀨澹   ( -明治37)岐阜上竹屋町の人。老後伊奈波誓願寺内に小庵を結びて隠棲す。78歳。              獨り淸貧を甘んじ、妻を娶らず。終生無妻にてはてしと云ふ。奇人なり。  村瀨伴右衛門(後期)  (布袋町史)尾張藩の大庄屋、七人衆の内。 ----------------------------------------------------------------------------------------------  村瀬弥兵衛 (1860年) 安政6年4月19日景山源録を以て村瀬弥兵衛まで申渡し(御新田部屋御用日記)  村瀬房之助 (1861年) 鳥取藩。  村瀬恭之助 (1861年) 赤穂藩。徒士目附。村瀬恭之助源伊信。  村瀬富右ヱ門(1862年) 阿波御船頭・御水主分限帳。御目見杖突格。中汐縣裁判。御城内御用。  村瀬八兵衛 (1863年) 因州様御泊 御裏判。  村瀬義八  (1864年) 勤王志士 伴林光平、吉田大次郎、古高頼母。(と田中平八)敵:新選組  村瀬八郎右衛門(1865,1867年)太田代官。太田御陣屋。  村瀬庫次  (1866-1921年)衆議院議員。尾張国丹羽郡小折村(愛知県丹羽郡布袋町。漢学を学ぶ。 ★村瀬伴右エ門(明治維新前)尾張藩の大庄屋、七人衆の内。 ★村瀨斧三郎 (明治維新前)岐阜奉行。※要確認  村瀨權右衛門(1868年)(北方町史)惣年寄格帯刀御免。  村瀬平左衛門(1868年)(北方町史)増屋町俵町丁頭。  村瀬市助宜次(1868年)(可児町史)討死の銘々(正気隊出陣日記)  村瀬眞次郎 (1868年頃)赤報隊 大砲組。  村瀬猶次郎 (1868年頃)赤報隊(追放処分?)。尾州宮町。  村瀨村治(次)(1868年) 新選組の近藤勇を捕えた。(近藤捕縛は史料により異なる)              西丸玄関門の警備に当たる。今諸道進軍人員取調帳。隊長柴山理太郎。  村瀨五藤太 (1868年) 同上。隊長補横倉喜三治。 ★佐治大謙   (慶應3年-)愛知縣知多郡横須賀町玉林斎現董。横須賀町村瀨吉左衛門の長男。               後故ありて佐治と改む。同郡加木屋村普済寺、村瀨元嶺に就て得度す。  村瀬克忠   (江戸時代)土橋辰真(ツチハシトキザネ)の門人。 村瀬節之丞(道庵(江戸時代の医師)頃) 駿河御家中 忠長頃(1606-1634年 摂津花隅城 池田せん 村瀨伊左衛門 村瀨藤八  美作 村瀨左右  津山藩分限帳に5石3人扶持 村瀨五兵衛 津山藩分限帳に5石3人扶持 村瀨秀榮 (江戸時代?) 本因坊18世(囲碁) ふそうちょうし 18xx 村瀬兵庫助 享保7 村瀬七大夫 丹羽郡下野村禰宜 明治元年頃 村瀬重波 神官 讃岐守と号す。 村瀨伊左衛門 2000石餘 武儀郡倉知村、下白金村、跡部村 村瀬真次郎(倉知) ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■明治時代  村瀬 (明治初期)(岩倉市史)東市場(東町)。明治以前からの居住者。石黒・村瀬は曹洞宗。  村瀬博 村瀬村治の孫。岐阜県本巣郡糸貫町随原の村瀬博さん(七六)で、三十年の教員生活の...  村瀬宗左衛門 愛知県布袋野村の人。小川村字日出雲に山林(通称御立山)を所有。  村瀬茂三郎 (1868-1953年) 山形 - 東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 別篇 (人名)               村瀬家は旧松本藩主水野家の老臣で、水野家改易後忠穀(ただよし)に...               代々酒造を業としたのが彼の先祖である。享年85歳。  村瀬奥三右衛門(明治2年) 高富藩代官。  村瀬泰蔵   (明治2年) 赤穂藩士。  村瀨八郞右衞門(明治2年) 名古屋藩士。  村瀬義郎   (明治2年) (白根市史)5月27日、越後府村瀬義郎様夕刻御着。               (新発田藩関谷兵内様より分水営繕を申し付けられる?)  村瀬伝太夫源高明(明治2年)神戸藩庁大属。  村瀬小右衛門(明治2年) (小牧市史)小折村庄屋。  村瀬権大属 (明治4年) 春日井郡出張所掛  村瀬頼助  (明治4年) (岐阜市史)方県郡上尻毛村庄屋。  村瀬恒右衛門(明治4年) (高山市史)高山川原町。村瀬屋恒右衛門。        (明治2年) 謹慎を命じられた。(里正僚日記?)    村瀬隻石  (明治10年没)書家。姓は橘、名は魚彩雲と号す。    村瀬幸十  (1860-1???年)杉本柳蔵の二男。明治13年村瀬家を継ぐ。隠退させられ行方不明。    村瀬尾張  (明治15年) 醍醐派宗務所長。 ☆村瀬豆州  (明治21年) 9月、明治天皇第六皇女常宮昌子内親王の御生誕遊ばさるゝや、               此の名古屋住の漢方醫村瀨豆洲氏が特に召されて拜診仰付けられ、               淺井正典は其の助勤拜命の名譽を荷つた一事である。  村瀨只助(唯助)(明治28年)(北方町史)町会議員。 村瀨九郞右衞門 村瀨銀頭行取。  村瀬平作  (1896年) 権現山(岐阜市)の時の鐘をつき始める。   ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■大正時代    村瀬守男(大正8年) 村瀬医院 海部郡弥富町大字平島新田堤跡1159 - 日本医学百年史            初代村瀬没底は元岩倉藩の藩医で長崎に蘭学を学び始めて此地に医業を開いた            (当地大慈院の建立者)、二代~三代幸衛、四代幸衛は安癇山と号し長島藩の            御典医をつとめ平島のあかんとして知られた。五代厚英、六代秀之(名古屋好生            館に学ぶ)七代初太郎。  村瀬小金次(1878年) 徳川家開墾地創業第一次移住単身者(十人)の一人。北海道八雲町第一回入植者。            旧尾張藩主徳川慶勝は「北海不毛の土地を開拓して聊(いささ)か国家に貢献し兼て            旧名古屋藩士中、世の推移に伴はず処世困難の為め貧窮に陥らんとする者多きを憂ひ            就産の一途を開かんと欲し」 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■昭和時代(1945年まで)   ---------------------------------------------------------------------------------------------- ■昭和時代(1945年以降)  村瀬清司(1946-2021年)元社会保険庁長官(在任期間:2004-2007年)   ■平成時代   ■令和時代 ---------------------------------------------------------------------------------------------- 〇 『因伯の木地屋』(荻原直正)にも載せられているので次に転載する。 湯山池の干拓 鳥取砂丘の一隅に... 『御新田部屋御用日記』安政六年四月十九日の条に左の記事がある。 御国産方長役中野良助より当四月初旬、岩井郡湯山池と種子ケ池との高低、何程これ有るべくや、 取り調べくれ度き段、 景山源録を以て村瀬弥兵衛まで申渡し、則ち測量絵図一枚差出し候故、同廿七日御吟味役より右長役まで相廻し置き候ところ、 同人より湯山池新田に開立の儀申達し、御聞届け相済みし旨、去る十四日御吟味役登城の節、右の御書付相渡さる。 然るところ良助より何事申談もいたさずに付、御郡への仕出し見合せおき候ところ、去日左の通りかけ合越し候故、 左の通り返答に及ぶ。...(略)... --------------------------- 尾張藩考 第2輯 (産業) より また,安政年中,藩士村瀬美香は,市江鳳香について,篆刻を学び,磁印を始めたが,これを「 不二見焼」という。 更に,辻惣兵衛〔二光〕は,富士見原の酔雪楼の庭園に窯を築き,これを「 酔雪焼」と称し, その子鉦二郎は父業をつぎ,明治十二年頃より,夜寒の里に移り,「夜寒焼」 を始めた。 --------------------------- 長良(ながら)にある堂。子安観世音菩薩 岐阜県岐阜市長良字梅子3092-1 開基、村瀬京、村瀬佐助など 別名、梅子子安観世音菩薩 村瀬一郎「竹園の漢詩人 伊等冠峰」 尾州秋栄講(びしゅうしゅうえいこう) https://crd.ndl.go.jp/ 『日本の木の橋・石の橋』(村瀬佐太美著/山海堂/1999)ISBN:4-381-01229-1 論題  蜻蛉日記の長歌について著者  村瀬敏夫 『順・逆解析入門』(村瀬治比古著、森北出版) 日本の食文化大系14『そば通』(村瀬忠太郎著 東京書房社 1985年 北のパイオニアたち : 北海道・十勝の新しい暮らし / 村瀬章∥著 / はる書房 , 1983.7 『左手の書 明治の神話・古代の神話』村瀬仁市,1981年 日本現代詩人会編『資料 現代の詩2001』の村瀬和子のプロフィールより、詩誌『存在』の同人と判明。所蔵の同誌を調べたところ、第90号に「『花フェスタ2005ぎふ ぎふ桜ものがたり』朗読詩として、「さくら」(p.4-5)「はながたみ」(p.6-8)の2篇が掲載されていた 村瀬幸吉「山内一豊の妻千代女のことども」(『美濃民俗』65 p.470) 見性院(けんしょういん) 山内一豊の妻の出自については、近江国小谷城主浅井家の家臣若宮友興の娘とも、美濃国八幡城主遠藤盛数の娘ともいわれている。(『一豊の妻見性院出自の謎を追う』より) 「史蹟名勝天然記念物調査報告 9」(香川県史跡名勝天然記念物調査会/編 香川県   1938年発行)   香川県下に於ける明治維新の勤王家1 土肥七助(38~39頁)   なお、本書には「年十五村瀬某に随つて播磨国網干に学ぶこと三年にして家に帰る。此歳   伊予西条宇和島に順遊し剣法を試む。」との記述がある。 村瀬円良「郷土出版の主脈-明治から終戦までの素描-」(『郷土研究岐阜』11号(1976)) 「生涯現役:野副鉄男先生にきく」 野副鉄男,村瀬雅之 『ファルマシア』31(8) 1995.8 『社寺(蒲郡市)を訪ねて 第29号』村瀬 亘宏,1999 京の水 村瀬仁市∥編著 人と文化社 1987年 伊吹山ミニ事典 村瀬忠義∥著 名阪近鉄バス自動車部関ケ原営業所 1994年 「池田寛親自筆本『船長日記』-督乗丸漂流記-を読む」村瀬正章著 成山堂書店発行 2005年 来島海峡を臨む文学碑の所在と内容、その建立の由来を知りたい。 春潮や 和寇の子孫 汝と我 (しゅんちょうや わこうのしそん なれとわれ)   高浜虚子 和寇の文字ももう彫りかけており、世話人の今井つる女や村瀬虹雨桜は原句のほうがはるかに良いとし 村瀬敏夫「紀時文考」(『湘南文学』五・六合併号) 村瀬敏夫『古今集の基盤と周辺』 村瀬之煕増訂『増續陸放翁詩選7卷』伊丹屋善兵衞等刊, 文化5序. 卷7 5葉裏 論文“1907年ハーグ密使事件の遺産”(村瀬 信也著)が見つかる 平安朝歌人の研究 村瀬/敏夫∥著 新典社 1994.11 (77-87) 斎藤道三と稲葉山城史 村瀬茂七著 雄山閣 1973 (144-189) 『新訳考証日本のフルベッキ 無国籍の宣教師フルベッキの生涯』W.E.グリフィス/著 松浦 玲/監修 村瀬 寿代/訳編 洋学堂書店 2003.1  天保12年(1841)10月 尾州知多郡亀崎浦直乗助次郎船、江戸送り酒1000樽などを積み御前崎に難船〔中略〕。『御前崎町史』 東南アジアにおける民族服の研究 (4) 北部タイ山地民族ヤオ族の衣裳 / 柴村恵子、村瀬史子 (名古屋女子大学紀要 No. 32, 1986年) 「忠節用水 用水路が排水路に」(村瀬博雅著 『コボたち』230号(1991.11)p.28~32) 村瀬茂七『稲葉山城史』博文堂 昭和12【680-161】 村瀬興雄「ヒトラー13の謎」『歴史読本』32[(20)][(463)] 1987.10【Z8-442】 村瀬寿代.長崎におけるフルベッキの人脈.桃山学院大学キリスト教論集 村瀬敏夫著「平安歌壇における歌林苑の位相」(『国文学 9巻9号』p82-85 学燈社 1964.7) 村瀬正章 著 , 村瀬, 正章, 1915-. 臥雲辰致. 吉川弘文館, 1989. (人物叢書 新装版) 『西由比ヶ浜駅の神様』村瀬健 KADOKAWA(メディアワークス文庫) 2020 村瀬正章 編 , 村瀬正章. 碧南. 国書刊行会, 1980. (ふるさとの想い出 : 写真集明治大正昭和 ; 第119) 蒲郡における観音信仰  蒲乃冠者∥編集. 社寺(蒲郡市)を訪ねて 第19版(平成10年3月号). 蒲郡 村瀬 亘宏, 1998.3. あいちのたてもの 村瀬良太∥絵と文 『和歌の浦 歴史と文学』(藤本 清二郎/共編,村瀬 憲夫/共編 和泉書院 1993年) 村瀬正章 著 , 村瀬, 正章, 1915-. 碧海の歴史 : 安城市・刈谷市・碧南市・知立市・高浜市の歴史. 松籟社, 1985. (シリーズ愛知 ; 1) 村瀬武比古 村瀬正章 KAKEN https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000020137243/ むかし忠仁公(藤原良房)が山荘を和州(大和国)生駒の郷に建てた。... 生駒左京進家廣は源氏の直系にして、姓は藤原を名乗り、生駒家初代の人である。 文明年間に大和國平群郡生駒郷谷口村より尾張國丹羽郡小折村へ移住してきた。 小折村に居を構へて郷主となり、近郷を治むるに至った。    + 女(信長の側室) + 平蔵 - 平三郎 ①久庵桂昌大禅定尼は家宗の息女で、弥平治(姓不明)→信長(2男1女を)秋田城介信忠、信雄、娘は徳川三郎信康の内室 ②徳姫を生んだあと小牧山で死亡 ③久庵桂昌=吉乃の方 久庵桂昌の助言で藤吉郎が信長供の者に加えられ仕官 本丸の西北に碑。今の村瀨健次郎宅内にして、県道名古屋街道東側の屋敷内の事である。 右衛門太夫忠政之系図 下野守信元信元被害之時成浪人、其後水野勝成領三州刈屋城之時、 再仕于勝成賜二百石而於和州郡山病死也、依無嗣子而 村瀬左馬助弟村瀬平右衛門之子以為養子号稲熊新五右衛門、寛永十二年二月於尾州熱田病死也、 是則稲熊三右衛門之父也、三右衛門者新五右衛門次男也、 寛永十八年九月三右衛門於備後国水野勝貞部屋栖之時被召〓于 下沼郷 - Wikipedia 楉野天神 楉野は下沼(しもつぬ)で、呼び名が相通じている。今は下野村宮地にあって、下埜(げそんど)明神といい、また、下野明神といっている 文学  村瀨左門  (信長頃1580頃)歌舞伎  村瀨新八  (信長頃1580頃)歌舞伎、信長48歳 ?嘘楽麿の外祖母 而老死。乾裕直村瀬克忠等 高山町 年番組頭 村瀬屋 孫兵衛 また臼杵藩の老臣村瀬通吉は百年の藩是を治水殖林に樹て、林野整理に重きを置きたる・・・ 家康伝 その他村瀬宗任·松浦弥左衛門·京極備前·石川康長·同康勝·山川賢信·北川宣勝等は、 村瀬正大弱〔上杉年譜〕家康(花押)〔上杉文書〕五〔譜牒餘錄〕ヒー村瀬正 村瀬忠兵衛 (?年)元和元年2月14日 越藩 旗本先六番備大小姓組二 村瀬誨輔 善庵の義子恭太郎、村瀬誨輔 御側筒頭村瀨小左衞門 前野宗康(1489年)死没 永禄三年(1560年) 前野義康(1530年) - 慶長14年(1609年) 前野長康(1528年) 日(1595年9 前野義高(1504年)永禄4年(1561年 前野勝長(-1585?) 刈谷町庄屋留帳 第14巻 (天保15年(1844)~嘉永4年(1851)) 村瀬佐助 西讃府志 村瀬彦四郎崇忠 (弘治3年頃) 美濃國 中村宗トと関係あり? 村瀬次郎左衛門 生駒家分限帳 使番組 村瀬彌右衛門 丸亀御家中分限帳 高中様御時代 十人扶持以上の面々 村瀬守助 大阪御留守居。丸亀御家中分限帳 高中様御時代 十人扶持以上の面々誨 香川業書 村瀬彦次郎宗忠 八栗の新城に盾籠る 村瀬次郎左衛門 使番。生駒家先退、切腹 村瀬二郎右衛門 生駒隼人城内屋敷、南御門之内立横共 村瀬傳太兵 神戸藩 村瀬松太夫 彦根藩足軽。仲居弥五八組。 村瀬源吾  彦根藩足軽。渡辺弥五左衛門組。 村瀬栄次  彦根藩足軽。藤田勝右衛門組。 村瀬四郎兵衛(1638頃)松平直政給帳(1638-1655年) 村瀬權兵衛(慶長18年ごろ) 播磨國姫路輝政侍。 村瀬新介 (慶長18年ごろ) 播磨國姫路輝政侍。弓の衆 村瀬新六 (慶長18年ごろ) 播磨國姫路輝政侍。 村瀬彦太夫(慶長18年ごろ) 播磨國姫路輝政侍。 村瀬平右衛門(慶長18年ごろ) 播磨國姫路輝政侍。 村瀬金右衛門(慶長18年ごろ) 播磨國姫路輝政侍。扶持方奉行(寛文11年) 村瀬源大夫(寛文3年)磨國姫路輝政侍。38歳 村瀬平四郎 御目付。(池田勘解由ごろ) 村瀬岩三郎(池田勘解由ごろ) 松平伊豫守家来。 村瀬弥三左衛門(慶安3年) 村瀬源大夫(承応3年) 村瀬金右衛門(明暦2年) 斥候検使役 村瀬久太夫 在京之士三十一人 村瀬長門 村瀬段内美 村瀬九兵衛(1700年) 福山城主松平下総守。御家中分限帳。 楉埜神社宮司村瀬氏 船越御普請仕舞村瀬作兵衛 (対馬) 村瀬源大夫 岡定俊(岡左内)用人。十年かかって小判一枚を倹約生活の結果であ「其方は小判をもっているそうだが、たしかか 「はい。この通りでございます」さしだされた小判は、肌にしっかりつけていたらしく、温もっていた。「何年かかった」「はい。十年ほど かかりました」「よくぞ貯めた。身上が摺り切れていては、いざというときに思うような働きはできぬものだ。 金を貯めるということは、なまじな決心では達成できぬ。よくぞ辛抱した。褒美をとらせよう」そういって、 左内はその中間に小判十枚を与えた。膨大なる遺産蒲生家は、氏郷が豊臣秀吉… 野間郡大庄屋 村瀬左源次 御用日記 村瀬氏。磯貝重久、原田春実六世の孫種直の二氏あり 村瀬栲亭 本姓は二瀨、遠祖藏人時行、多田滿仲に仕へ、後賴親に仕へ、子孫備中を領す。 村瀬氏の祖修験入我坊 - 西春日井郡誌 (愛知郷土資料叢書 ; 第16集)  大龍院(真言宗醍醐派)萩野村大字光音寺字郷中551番地 村瀬氏の祖村瀬松右衛門は、後に述べる「信濃屋喜兵衛一家内輪中」であった。 領主村瀬の祖大竜院殿 清寿院長栄(清寿院長栄日持-文化5.9.10没) 長栄娘(■月院妙円-天明元.5.30没)■夏,甚 村瀬玄中 名古屋清寿院住持。幼名は高之助、通称は喬臣・長喬、号を明日庵玄中・青樹庵。裏千家十一世玄々斎の高弟で、今日庵名誉教授となる。 明治維新の頃は一時神官を務めた。大正7年(1918)歿、74才。 その他 村瀬龍淵 村瀬龍児 村瀬正章 村瀬秀甫 延宝8年12月20日、幕府の道中巡見、御使番の村瀬伊左衛門重房、 組頭の設楽長兵衛能乗、坂部三左衛門が東海道鳴海宿を通過しています。 母は松平三河守家臣村瀬佐渡某が女。慶長十八年父が遺跡のうち近江國のうちにをいて五百石の地をわかち賜ふ。五歲時に十のち大坂 21: 屬せんことを具泰及び村瀨左馬助重治を使として請たてまつらんとす。二人相摸國小田原にいたるのところ、上方にをいて石田三成叛逆 71: 。●-正順渡邊はじめ村瀨を稱し、吉兵衞定がときにいたり、渡邊山城守茂が親族たるをもつて其氏を得て渡邊と稱す。と吉正佛教堂佐 93: 三成等謀反のとき家臣村瀨左馬助某をして、密に畿内の事を下野國小山及び宇都宮の御陣營につ(秀忠)げたてまつる。これによりて台 113: して脇坂安治が旗奉行村瀨忠兵衞某すゝみ來る。〓幽これと戰ひ、終に忠兵衞を生捕人質として同僚十一人と敵陣をのがれ出、御旗本に 117: 。妻は松平三河守家臣村瀨佐渡某が女。ねと一分好半左衞門母は佐渡某が女。(秀忠)慶長十四年より台德 美濃国岩津郡乙坂村佐藤家とその家来 村瀬圓良 京都の歴史 4 (桃山の開花) 30: ちにふれる事情からみて、この「磯谷」とは江州山中の領主礒谷久次であり、もう一人はその娘聟の立入宗継であることはまちがいない。朝廷は、禁裏御倉職 55: 、しかし『礒谷家系』によると礒谷新右衛門は、信長に奉公して膳所の城主となったが、信長の没後浪人して江州山中へ引きこもったと伝えている。将軍追放姓が多い。将軍義昭が追放されたので、信長は上京復興の命令をあ 269: 下張った土豪、礒谷は江州山中の領主であり、洛外へ一歩出れば、土着の反抗勢力がまだまだ残っていたのが実情であった。しかし、義昭 ---------------------------------------------------------------------- ---------------------------------------------------------------------- 鹿児島県西之表市村瀬にこの地名あり。 ---------------------------------------------------------------------- 12 三重県藤堂藩(津,久居)の村瀬 藤堂高虎の外孫の村瀬市兵衛、子の弥右衛門が見える。 村瀬伊豆守-吉成(市兵衛)-(弥右衛門,市之助) 村瀬吉正 (伊賀守)-村瀬重次 (伊豆守)-村瀬吉成 (市兵衛)-渡邊 (村瀬)定 (吉兵衛)(-1649年) -渡邊正友 (市十郎、七郎右衛門)(-1654/2/20) 村瀬吉正(仕える) 村瀬重次(仕える) 村瀬吉成(織田信孝に仕える) 渡邊 (村瀬)定(秀忠に仕える) 【村瀬吉成】 (市兵衛)。父は村瀬伊豆守、母は藤堂忠高の女。よって高虎の従兄弟に当たる。 天正十四年頃より、紀伊粉河に来て高虎に仕える。 同年、秀長が家康の居館造営を命じられたとき、高虎の下で台所門の普請を監督した。 慶長元年、板島に移り、後、兄弟が罪を得た為、吉成も辞して京都に隠れた。 慶長十四年、帰参を許され二百石、高虎より直に金奉行を命じられ鉄砲足軽五人を預かる。 ---------------------------------------------------------------------- 9    (丹羽郡前野邑に住し)) (慶長年代) 吉田、石川、岩田、野田、村瀬の姓に改姓。(同地に前野姓は一軒もない) 前野姓は慶長期以後喪われて、新しく五姓が生まれた。 吉田、石川、村瀬、岩田、高田の五姓である。 吉田、石川の両姓は、坂東平氏の拠点に由来するとみられている。 五姓を称したのは、前野氏がキリシタンであったため転宗の折、 五姓に改め旦那寺を持った結果である。 郷土文化 34(3)(127)では六姓 吉田、岩田、野田、高田、村瀬、石川、何れも源は一つにして前野氏也。 ---------------------------------------------------------------------- 6) 教養篇  大円坊はその祖は宇多源氏近江佐々木氏に出で,定景の代(文和2年一 1353戦死)村瀬氏を称し, 孫七郎の代春日井郡東鹿田村(西春日井郡師勝 町鹿田)に住し,織田信長に仕へ,… 元和2年(1616) 3月 願に依り隠居し,還俗して村瀬兵庫良清と称した。 寛永7年(1630)藩主 義直より軍貝之儀に付下問があり,人払いの上,家康伝来の軍貝の奥儀を言上し, これより以後,出陣の際には,必ず藩士の振合を以て,君側に属す可き旨を仰付られている。 延宝3年(1675)卒去している 謁見仰付らるる旨申渡されている。 同19年始めて大峰に登って修行, 寛文七年(1667)藩命に依り清寿院と改 称している。 ---愛知郡誌 より 高田城址。 呼績町大字瑞穂村新池の東方字城の内に在り。 東西五十九間、南北二十八間餘、今陸田たり。 里傳に云ふ、村瀬東心なる者之に居ると、 乗心は兵庫と称し、関白一條教房(従一位左大臣)の第二子-村瀬良円(丹波守)三世の孫なり、 父を元明と云へり。村瀬系譜 ---日本城郭全集 第7 (愛知・岐阜編)より 高田城は...村瀬乗心は一條教房四世の孫 はじめは高田四郎重家、重忠 乗心は天正五年(1577)に卒 ---京都の歴史 2 (中世の明暗) 源頼政の子息?高田四郎重家 ---岐阜県史 通史編 中世 美濃源氏と考えられる高田四郎重家 ============================================================================ ---熱田神宮とその周辺 より 富士浅間神社の由緒 当社の創祀は社伝によれば明応4年(1495)6月1日後土御門天皇の勅を・・・ (中略)愛知郡小林城主・・・ (中略)織田信長の妹おとらを娶り、時の人小林殿と称した。長清は神仏に・・・ 芦御堂(元 中区元末広町若宮八幡社の地、今 曹洞宗医央東泉寺、中区小林町)を その後当社は良円以後修験がこれを奉仕していたが、林蔵坊が社守となっていたが、 寛永2年(1625)粗暴不埒の所行のため追放となったので、 愛宕社(現在中区日出町13鎮座日出神社 祭神 軻具突知命 天照大御神月夜見命  宗像三前大神 猿田彦大神 稚日霊命)の社守修験 村瀬大円坊良清の預りとなった。 大円坊はその祖は宇多源治氏近江佐々木氏に出で、定景の代(文和2年-1353戦死) 村瀬氏を称し、孫七郎の代春日井郡東鹿田村(西春日井郡師勝町鹿田)に住し、 織田信長に仕え、同村近郊を領した。法名を洞雲庵永山寿昌居士と称し、 現在同地東蒲屋敷に曹洞宗竺峰山洞雲寺がある。 その孫大円坊は幼年同郡朝日村(西春日井郡清洲町大字朝日)鎮座の愛宕社の 別当地蔵院の弟子となったが、後修験となり、新田流大江流両流の軍貝を学び、 大いに声誉を得た。慶長5年(1600)12月、清須城主松平薩摩守忠吉より 武士に任用せんとしたが之を辞している。翌6年正月朔日、清須城で、 御目見仰付られ、同11日修験頭、軍貝役を命ぜられ、別当地蔵院跡職、 愛宕社及び居宅地を賜わり、同2月、御家中同様月並御礼出仕を仰付られている。 慶長15年(1610)名古屋還府に当り、愛宕社の社地を南寺町に賜り、同社と共に移転し、 また朝日村の元社地も賜わり、併せて社務を掌った。 元和2年(1616)3月願に依り隠居し、還俗して村瀬兵庫良清と称した。 寛永7年(1630)藩主義直より軍貝之儀に付下問があり、人払いの上、 家康伝来の軍貝の奥義を言上し、これより以後、出陣の際には、必ず藩士の振合を 以て、君側に属す可き旨を仰付られている。延宝3年(1675)卒去している。 良清の子宝寿院良済は元和2年2月、家督を嗣ぎ、父良清と同様に武役を仰付られ、 寛永16年(1639)浅間社及び住地を賜い、南寺町及び春日井郡朝日村の両愛宕社を、 舎弟良深に譲り、良深は大円坊と号し、後大乗院と改めた。 大乗院の配下に大和町に観寿院、末広町に栄宝院及び成覚院があった。 同19年8月28日、良済は名古屋城中に召され、城代久野七郎右衛門より 自今嫡子は勿論次男之有節は藩士同様謁見仰付らるる旨申渡されている。 同19年始めて大峰に登って修行、寛永7年(1667)藩命に依り清寿院と改称している。 (中略) かくて清寿院歴代は富士権現社および飯綱権現者別当を兼ね、 修験としては領内当山本山両派の修験頭を仰付られ、 醍醐三宝院袈裟下、紀伊根来同行に位し、尾張美濃両国大先達であり、 正月6日の名古屋中での寺社御礼には雁間において並居御礼の格式を持ち、 古渡稲荷神社神主の次座にあり、且つ軍貝役相勤むるに至り、 僧位としては権大僧都に至っている。 されば尾張藩中修験の筆頭として、名古屋城下町において69院中下記の如き修験を その配下に持つに至った。 (中略) 光友は義直の独子として一身の愛を享けたが、その教育は厳正を極め、 文に武にその極むること深く、すなわち家士柳生兵庫介利厳に剣道を、 細野新次郎一雲に八条流馬術を極め、強弓を用い、水練に巧みにして、 老年に至るも兵法の修行に怠りなく、・・・ (中略) この折祭主を助けて活動したのは彦根の人目加田栄(後に兵庫であり、 その理論的裏付けをしたのは、80歳に近い考証学に詳しい神宮禰宜巫女清直 であった。) (中略) 金銅兵庫鎖太刀 総金具金銅・松・鶴及び鶴の丸の彫物がある。帯取の緒に兵庫鎖を用いたもので、 鞘の履輪に「永仁第七歴唯心房円定施入」の毛彫の銘がある。 長さ二尺、中身は無銘であるが鎌倉時代の製作と思われる。 村瀬家世系譜 名古屋市史社寺編 村瀬家世系譜 愛知郡誌 天文12年(1543)水野大膳の臣村瀬隼人が拝殿を修理... ↓ 磯貝重久 (六右衛門、彈長)の子が里治 ↓ 村瀨(磯貝)重治 (重也、小三郎、左馬助、高唯)(幼名重也)(-1633/4/20) (妻:水野信近 (千代松、藤四郎)(-1560/4/19)娘) ↓ 重次 (清藏)(-1651 年 12 月 2 日) ↓ 村瀬左馬(村瀬左馬之介重俊、倉知村領主) ↓ 村瀬小三郎重俊(二代目) その他 村瀬(磯貝) ---山野豊 : 倉知の土地改良史と倉知の歴史 寛永年間時の領主村瀬平四郎公の仁政によって・・・ 慶長5年旗本村瀬左馬之介倉知を領し幕末に至る。・・・ 磯貝新左衛門 久次 ↓ ①村瀬重治 ②重俊(長男:重次、次男:重俊、女子-子(多賀家)) ③重房(養子) ④房矩 ⑤房昌 ⑥房常 ⑦俊清 ⑧俊■(糸へんに恵) ⑨重候(長門守) ⑩重清(養子) ⑪重教 ⑫真次郎(養子) ※勤王、旗本、廃藩置県の頃。(帰順旗本諸氏) ↓         1864年3月には、尊王攘夷運動の中心勢力であった長州藩は、 子?        イギリス・フランス・オランダ三国の下関の威嚇や、           7月の土佐・薩摩藩の征長進言によって、・・・ 五、昭和の倉知祭 (一)大東亜戦争と倉知祭 (中略) 倉知の領主、村瀬家の先祖磯貝新左衛門久次公の功績を頼山陽のものする所の、 日本外史所載の事より、説き起し、初代村瀬左馬之介重俊公の功績、 同正室松江姫の生立ち、即ち織田信長公の従妹にして、嫁して主左馬之介への内助の功績、 且つは、二代目村瀬小三郎重治公の孝心篤く、初代左馬之介を當時十六所山中腹に建立あり しも、白山大権現の廃朽甚しきを、憂ひ改築して、其処に、父の御霊を合祀し、 又久郷の前の田の中に、宮を創設、松江姫の御霊を祀り、松江大明神と号され、 且つ大龍寺に院殿の墓を創設等の、由来を説き、而して左馬之介没後の冥日4月20日に (松江姫冥日4月15日)両神霊祭場に供養の面々を従え、御旅に向はれし起源を、 明らかにして而して、昨今行はれている祭典行事の内容、振舞ひの献立の事、 渡御の行事、祭競技に使用される器具の規格を明らかにし、・・・ 久郷組氏子の方たちへ・・・ 下氏子 某組氏子総代 某 氏 しかし、その年文政と改元されて、村瀬領主は徳川将軍から御小納戸(おこなんど)役を命ぜられ、・・・ その両祝を兼ねて知行所へ祝酒を賜わり、村役人、五人組頭、百姓代一同御陣屋御殿で御祝いの宴を催した。 ---------------------------------------------------------------------- ↓ ↓ 村瀨(佃次郎兵衛十成の末葉)??? 『系図纂要』の岩松氏系図を見ると ---------------------------------------------------------------------- 6、 の村瀬氏 村瀬四郎右エ門(上杉家の浪人) ↓ ---------------------------------------------------------------------- 7、清州の村瀬 愛宕社(大字朝日) ---清州町史より 愛宕山大智院 当社愛宕大権現鎮座、時代不詳、大智院良珉(りょうみん)に、清州城主織田信長公 ・同信雄卿、共ニ是ヲ尊崇シ玉フ、次ニ福島左衛門太夫 〇正則 殿、信仰厚ク、 当社え参詣アツテ目見被申付、又、薩摩守様 〇松平忠吉 御病悩之節、御代参トシテ、 御近習山本専太郎参詣有」之、 一、良珉(りょうみん)事、慶長10年(1610)10月3日寂、子息大円坊良清家督、 一、境内、前ニヨリ御除地也、 一、良清代、慶長15戌年(1615)、清州■(から)名古屋え御城後引移之節、   於南寺町、屋敷拝領、当社ヲカノ地エウツシ、即愛宕山大乗院ト号シ、良清住職ス、   然ルニ良清姉 於比仁(おひに)ニ同郡田中村薬師堂泉蔵院(せんぞういん)某ハ、元来、   縁者ナレバ、オヒニト妻合セ、当院ヲ家督ス、仍(よつ)テ薬師堂トリコボチ、   本尊并日光仏、当院え持参、今境内ニ安置シタテマツル、是ナリ、薬師堂屋敷跡ハ、   田所に致し、当院ノ家参トス、其後、伊那備前守 〇忠次 殿 御検地之節 〇慶長13年   当院御休所ナリシガ、幸ヒ薬師堂殿跡ノ義ヲ逐一申上、御許容ノ上、本尊薬師如来   供養田(くようでん)トシテ、永代御除地ニ被成(なし)下候、 一、往古ヨリ、村瀬氏ニテ、宇田(多)源氏佐々木盛綱(ささきもりつな)ノ孫ト申伝候、 同じころの「尾張志」には、巻一、名古屋、神社の条に「愛宕社」をあげ、 南寺町大乗院境内にあり、伊弉冉尊(いざなみのみこと)・火産霊命(ほむすびのみこと)を まつるといい、慶長5年に松平忠吉が、旧清洲の朝日村に建立したのを城下移転のさい、 現地に来たことを記るし、寺院、大乗院の条には簡略である。また、『尾張徇行記』には、 朝日村の条に、やや詳しく、こう書いてある。 (以下略) ---------------------------------------------------------------------- 11、村瀬栲亭 村瀬栲亭(1744-1818年)は京都の儒者で古註釈学者。 姓は源(みなもと)、名は之熈(ゆきひろ)、字は君績(くんせき)、 通称は掃部(かもん)、右衛門(うえもん)、嘉右衛門(かえもん)。 栲亭(こうてい)はその号。官は妙法院門門跡侍講、 秋田藩儒。延享元年京都で生まれ、文政元年京都で没した。享年75歳。 ---コトバンク 村瀬栲亭(読み)むらせ・こうてい 朝日日本歴史人物事典 「村瀬栲亭」の解説 村瀬栲亭 没年:文政1.12.6(1819.1.1) 生年:延享1.5.21(1744.7.1) 江戸時代後期の漢学者。京都の人。 名は之煕,字は君績,通称は掃部,嘉右衛門など。 栲亭は号。本姓は源。医を堀元昌,儒を武田梅竜に学ぶ。 明和3(1766)年,師梅竜のあとをうけ,妙法院門跡の侍講となるが,のちに病をもって辞す。 天明3(1783)年,秋田藩より聘され,世子侍読となる。 その後,藩政に参与,総奉行上席に任命され,改革にとりかかるが挫折。 寛政3(1791)年には隠居,京都に帰り文人としての生活をおくる。 詩文,書画をよくし,考証随筆『芸苑日渉』にその博識ぶりが窺える。 <参考文献>妹尾和夫『村瀬栲亭』(高橋昌彦) --- 村瀬栲亭(1744-1819) 儒者に村瀬嘉右衛門元熈(君績)あり、栲亭と号し、その子を修と云う。 ---新式漢文捷径初歩 竹内水哉 著 宝文館 明39.9 村瀬栲亭 名は之熈、字は君績、栲亭は其號、京都の人、武梅龍、清家の門に遊び、 古學を唱ふ、中年より詩文を専らとし、秋田候に聘せられ、文政の初年没す、 年70、著す所、論語集■(茷?)、學庸集■(茷?)、萬象一旨、■苑日渉等あり。 折衷學 〇宇野士新-武田梅龍-村瀬栲亭-岡本元亮 ※小字・通称 嘉右衛門 ※阿波郡市場町香美の人、名は之熈、または小華陽、字は君績、嘉右衛門と称した。  別号に神州がある。京都に出て武田梅龍について儒学を修めた。 秋田藩に招かれて儒官となり佐竹義和の改革を助けて実績をあげた。 詩文に長じ、書は草書、画は蘭竹にすぐれていた。 のちに姓を妻の旧称である「土岐」に改めて土岐仲書と称した。 晩年は京都に住み多くの門人を育てた。門下からは ---------------------------------------------------------------------- 関連のある事柄 ---------------------------------------------------------------------- 大留城 大留城は『張州府志』には「在上大留村。村瀬作左衛門(ママ)居之。今為竹林」と記されている。 『尾張志』等には村瀬氏が織田氏の臣であったことを記すくらいで、他の近世地誌類もほぼ同内容 を記している。 『高蔵寺町史』では、大留城を天文15年に村瀬某が築いたとする。 その子作右衛門は天正12年の小牧長久手の合戦の折りに、羽柴秀吉方の池田恒興に属して、・・・ ・・・ (中略) しかし、大留城主村瀬作右衛門の来歴については、次の点から大きく訂正されなくてはならない。 即ち、『織田信雄分限帳』によると村瀬作右衛門は、天正12年の小牧長久手の合戦前には 九日市場(現一宮市内)で500貫文を知行しており、小牧長久手の合戦後の天正13年段階では、 九日市場の知行地に加えて「篠木之郷」(現小牧氏・春日井市)内に4300貫文の大幅な加増を受 けていた。 つまり、小牧長久手の合戦の前後を通して、村瀬作右衛門は織田信雄の家臣であったのであり、 池田氏に属したとする点や、長久手で討死したとする点は事実ではない。逆に、天正13年での 旧知行地の9倍に近い加増は、村瀬氏の小牧長久手の合戦における功績によるものと考えられる。 小牧長久手の合戦をめぐっての作右衛門の動向は、従来語られるものとは大きく異なっていた のである。 次に、大留城の現況図を第4図に示す。 城域は現在、宅地や畑、子安神明社境内地等となっているが、比較的遺構をよく留めている。 (中略) ところで、先に述べたように『高蔵寺町誌』では小牧長久手の合戦で城主村瀬氏は討死したと 記していた。事実と全く異なる伝承が伝えられた背景を穿ってみれば、何らかの事象を表して いるのかも知れない。天正13年に加増を受けた村瀬氏は恐らく本領の大留から織田信雄の居城 清須へ集住を余儀なくされたと考えられる。想像を逞しくすれば、大留における城主不在の 状態が、在地では同時期に起きた合戦に結びづけられ、城主討死という形で語り伝えられたので はないか。つまり、政治的な動きによる在地領主の不在は、在地においては城主討死という最も 即物的な形でしか伝えられなかったものと考えておきたい。 (中略) 本稿作成にあたり、安藤義弘氏、石川浩治氏、梅本博志氏からは資料の提供等でお世話になった。 記して謝す次第である。 ----------- 大留城 | 将軍足利義輝の家臣だった村瀬氏の居城 村瀬作左衛門 左衛門の尉 大留譲城 愛知県春日井市大留町6丁目 歴史 大留城を築城した村瀬氏は、本来足利将軍家の被官(ひかん:家臣の意味)であり、 大留村のほかに九日市村、篠木村、さらには伊勢国にも所領があり、 合わせると40,000石を超える所領があったそうです。 -----------他説  天正十二年(1584)年の小牧長久手合戦では羽柴方となります。  池田恒興率いる岡崎城攻撃隊も4月8日に大留城内で城主・村瀬作右衛門等と軍議を開き、  翌9日に長久手にて家康軍に大敗しています。  この時、村瀬作左衛門も池田恒興と共に戦死し、以後、大留城は廃城になりました。 ----------- 感想 現在の春日井市大留町にある子安神社を含めた周辺が、かつての大留城といわれています。 子安神社の前に小さな祠があり、その横によく見ると大留城の石碑も建っています。 お城の遺構としては、子安神社の北側に堀と土塁らしきものが残るほか、 私的には南側を流れる庄内川も気になりました。 大留城の立地からいって、この庄内川を天然の堀として、南側の防御に活用していたのでしょう。 -----------武功夜話 第2巻 在郷首(かしら)衆村瀬作左どの、森川権どのと物議示し合せ、右の出来小牧山御本陣へ注進に及び 小幡まで罷り出で候なり。在郷の首衆連署誓紙を差し出し同心の躰を粧い、先導役を引き請け 三州道案内、岩崎へ罷り出で候ところ、丹羽次郎左、同治郎助城中より鉄砲、矢数熾んに射出し、 池田の先手に切り懸け二刻半相戦い相こらえ一人残らず討死仕る。 村瀬作左どの此の取り合いに武運拙く相果て候。 村瀬作左どの倅、九郎右衛門も同陣乱軍の間切り抜け十死に一死まぬがれ候なり。 村瀬作左殿は、親孫九郎尉旧来昵懇の人なり、尾州郡村の産なり。 岩倉落去の跡、孫九郎尉柏井を領知するに依り、柏井へ越し来たり住居候なり。 上郡に並ぶ者なき武辺の人に候なり、此度親子とも格別・・・このあと断簡。 ---------------------------------------------------------------------- 高田城 愛知県名古屋市瑞穂区亀城町5丁目 愛知県名古屋市瑞穂区の高田城は謎が多い瑞穂区のお城。 城主は高田四郎重家、または村瀬浄心と伝わります。 歴史 【尾張名所図会】では、高田城を尾張源氏の高田四郎重家の邸跡としています。 この高田四郎重家は平安末期の武士で、何かの罪で土佐に流罪になっています。 時代は下り永禄年間(1558~70)になると、 村瀬浄心という人が高田城主になったようで、永禄七年(1564)に、 この村瀬浄心がこの地に八剣社を創建した記録があるので、 この頃には城主となり勢力を持っていたのでしょう。 また【尾張旬行記】という書物に『高田城は高田村字城の内にあり。 土人曰く、村瀬浄心これに居る』という記述があります。 あと【張州府志】では、高田城主を村瀬里治としており、同じ村瀬姓でも浄心と、 どんな関係だったのかまでは不明です。 感想 現在の名古屋市立御剣小学校が高田城跡と伝わります。 この周辺は瑞穂区でも開発が進んでいる地区なので、遺構も雰囲気も残っていません 校門前の看板を良く見ると、教育委員会の建てた看板があり、 高田城跡という事は記載されているのですが詳細は書いてありません。 ・所在地  瑞穂区亀城町5丁目 ・立地  平城 ・築城時期 平安時代末期(源平の頃) ・築城者 ? ・主な城主  高田四郎重家、村瀬浄心、村瀬里治 ・現状  御剣小学校 ---------------------------------------------------------------------- 大円坊はその祖は宇田源氏近江佐々木氏に出で、定家の代(文和2年-1353戦死)村瀬氏を称し、 孫七郎の代春日井郡東鹿田村(西春日井郡師勝町鹿田)に住し、織田信長に仕え、 岡村近郷を領した。法名を洞雲庵水山寿昌居士と称し、現在同地東蒲屋敷に曹洞宗竺峰山洞雲寺 がある。その孫大円坊は幼年同郡朝日村(西春日井郡清洲町大字朝日)鎮座の愛宕社の別当地蔵院 の弟子となったが、後修験となり、新田流大江流両流の軍貝を学び、大いに声誉を得た。 慶長5年(1600)12月、清州城主松平薩摩守忠吉より武士に任用せんとしたが之を辞している。 翌6年正月朔日、清州城で御目見仰付られ、同11日修験頭、軍貝役を命ぜられ、別当地蔵院跡職、 愛宕社及び居宅地を賜り、同2月、御家中同様月並御札出仕を仰付られている。 慶長12年(1607)4月、徳川義利(1610)名古屋還府に当り、愛宕社地を南寺町に賜り、同社と共に 移転し、また朝日村の元社地も賜り、併せて社務を掌った。 元和2年(1616)3月願い依り隠居し、還俗して村瀬兵庫良清と称した。 寛永7年(1630)藩主義直より軍貝之儀に付下問があり、人払いの上、家康伝来の軍貝の奥義を 言上し、これより以後、出陣の際には、必ず藩士の振合を以て、君側に属す可き旨を仰付られて いる。延宝3年(1675)卒去している。 良清の子宝寿院良斎・・・・・・ ---------------------------------------------------------------------- 三河商人は『石橋を叩いても渡らず、他人を先に渡らせる』 浅井久政の子長政に「六角の家老平井加賀守」の娘を嫁し( 犬山市 虫鹿(むしが)神社 丹羽郡扶桑町斎藤 前利(さきと)神社 尾張国知多郡内英比郡薮郷 人物往来歴史読本 10(3) ご連絡下さい。北多摩郡●●町●● ●●●●までお知らせ下さい。 村瀬姓は、蜂須賀家のものと同じですし、また美濃·尾張地方、また阿波·徳島などに多い姓です。 村瀬家と蜂須賀家との関係も調べていますが、この点も何かわかればと思っております。 村瀬家の家系に関しても興味をもっています。以上、三井、小生 中央公論 101(4)(1204) 東久邇宮、最後列は村瀬直養。近衛文麿·岩田宙造、東久邇宮内閣の閣僚登·緒方竹虎 廬城部連武彦(廬=リョ ロ いおり) 本巣郡網代村 村主村 家紋 徳島の今市正義先生  先祖が播州龍野から蜂須賀家に従って阿波に入り、今出屋喜四郎と称して城下紙屋町に移り住み、以来16代に閲した。 紋は並び矢、祖父までは御用大工職であった。 (信濃)松塩筑地方 赤羽姓=並び矢など 清水町史 丸に並び矢 若栗家 京都 大歳神社 神紋 並び矢 与謝郡野田四辻 八幡神社  神紋 並び矢 知夫群浦郷町 由良比女神社 神紋 丸に並び矢 水上町 町誌みなかみ 栗沢 桑原 (丸に) 並び矢 網子 沢井 (丸に) 並び矢 小日向 岸野(丸に) 並び矢 湯原 小林 (丸なし)並び矢    羽根田(丸に) 並び矢 久瀬村の村瀬 下り藤 久瀬村の矢野 丸に並び矢 増穂町 丸に並び矢 小野 芳野村 丸に並び矢 13位 (瑞穂町)田所地区 梶原姓-梶原 丸に並び矢 木曽義仲軍と源 義経が宇治川を挟んで争い、義経軍の先陣争いをした二人 の武者が佐々木高綱と梶原景季である。 絵馬は互いに策を めぐらせ、まさに先陣を競おうとしている様子を二枚に描 き分けている。 左側の絵馬佐々木高綱は振り返り梶原景季 に向かって「腹帯のゆるみがある」と伝えている。 馬は白 馬の「いけずき」。鎧には四つ目結の家紋が描かれていることで佐々木高綱に間違いはないであろう。 右側の絵馬梶 原景季は弓の弦を口にくわえて腹帯を締めようとしている。 鎧の家紋が並び矢で馬は黒馬「するすみ」である。 「源平盛衰記」の話を忠実に表し、非常に丁寧で臨場感のある絵... 村瀬姓の武士は何件か見つけられますが、いずれも本姓ではないので、その由来は不明です。 藤原姓で、石井氏のわかれ、静岡と鳥取に見られるそうです。